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それから、何れ程の時が経ったろう?
薙は、未だ緩い微睡みの中に在った。
宛ら、波間に漂う小舟の様に、夢の世界を行きつ戻りつしている。
…ゆらゆら、ゆら…
心地好い揺れが誘う、怠惰な眠り。
ゆらゆらと繰り返す不規則な波が、揺り篭の様に薙の心を開放する。
──それが。誰かに体を揺さぶられているのだと判ったのは、耳元で頻りに名を喚ぶ声がしたからだった。
『…薙、起きてよ…ねぇ』
優しい囁きだった。だが今はそれすら、安眠を妨げる煩わしい騒音でしかない。
(お願い…もう少し眠らせて…)
聞こえない振りを決め込むと、今度は頬と言わず鼻と言わず、ツンツンと突つかれる。執拗な攻撃に耐え兼ねて、薙は手で払う仕草を繰り返した。…直ぐ傍で、クスクスという悪戯な忍び笑いが聞こえている。
『起きてよ。ねぇ、薙?』
…どうやら声の主は、何が何でも彼女を起こすつもりらしい。
擽る様に頬を撫でる指先。
髪を弄ばれる感触が、薙を眠りの世界から連れ戻す。
「うぅん…」
仕方無く、彼女は重く塞がる瞼を持ち上げた。その途端。目映い照明の光が、寝惚けた網膜に突き刺さる。
「…っ、んん…!」
眩しさに耐え兼ねてぞんざいに目を擦れば、視界いっぱいに、見覚えのある繊細な美貌がボンヤリと映り込んだ。
(誰?…)
あまりに深く眠っていた所為で、束の間、記憶が混乱している。確かめようと目を凝らしたが、顔が近くて焦点が結べない。
僅かに目を眇めた瞬間。
美貌の主は、ゆっくり此方へ唇を近付けてきた。薙は慌てて身を起こす。
「わゎっ!ちょっ…誰!?──紫?!」
「あれ、起きちゃった。」
…見れば。向坂紫が、覆い被さる様にして薙を覗き込んでいた。頬に、ふわりと吐息が触れる。
「残念。全然起きないから、俺が目覚めのキスで起こしてあげようと思ったのに。」
「キ、キス?!」
「お姫様を起こすのは、王子様のキスって決まっているだろう?」
「何言ってんの、冗談が過ぎるよ!」
「冗談じゃないよ。本気も本気。ねぇ、折角だから試してみない?俺、結構巧いんだから。」
「断る。」
「ケチ。」
乙女の寝込みを襲っておきながら、今度はケチ呼ばわりをする。全く紫は、油断も隙もない。
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