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「…なぁ、何で名前も教えてくれないの。」
「君がビックリすると大変だからさ。」
「ビックリするって…何で?」
「うーん…これを話すのは少し早いなぁ。また今度にしようよ。」
「いつか、教えてくれよ。」
「…」
「約束も出来ない?」
「…考えておくよ。」
ゆっくりと微笑みまた前を振り向く。
彼の目に俺は映っているのか否か。
彼は誰を見て話しているんだ?
俺にはよく分からない。
ずっと、今までも、これからも分からないと思う。
もしかしたらそれでいいのかもしれないが。
何もわからないままにした方が安全だぞ、と。
彼が言いたいのはそういうことかもしれない。
深入りするのは止めておこう。
また今日も事実の一つも分からず彼との交流を終えるのであった。
「ほら。着いたよ。江ノ原さん。」
「…あぁ…」
「また寝そうになってたよ。睡眠足りないんじゃないの?ちゃんと毎日眠りなよ。ぐっすり寝るといい夢見れるよ?」
「…そうだなぁ。ごめんな。じゃあ、行ってくるわ。」
「おう!今日も頑張ってな!」
彼は元気よく俺に手を振りながら舟をもと来た道中へ漕いでいった。
その背中を完全に見えなくなるまで見送って、俺は会社のガラス張りの扉を開ける。
彼と話すとなんとなく気が緩まるのだ。
それはいつの間にか大切なコミュニケーションになっていた。
いつか謎を暴こうとしている自分がいるのも事実だが。
入ると同時に涼しいクーラーの風が身体をすり抜けていった。
健康に悪そうな寒い風。
ひんやりとした職場には笑顔なんてひとつもない。
この前入ってきた新入りの女性はもういなくなってしまった。
あの子も駄目だったんだな。
いつの間にかクズだと罵っていた上司と同じようなことを思うようになった自分に落胆する。
でも、俺は思ってるだけ。
口には出していない。
笑ったりしていない。
まだ大丈夫。まだ大丈夫。
あんな奴じゃない。
俺はまだ、救われる。
俺は右手を口元に持っていき誰も聞こえないような細い声でそっと嗚咽を零した。
「おえ。」
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