#3 Alice

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「お兄さん。今日はどこまで?」 黒い海の上にぽっかりと浮かぶ木舟。 ざわざわと荒い潮風が頬を掠め、僕の髪と彼の服のフードを揺らす。 僕と同じ髪色の癖っ毛が少しはみ出ていた。 ニヤリといやらしく笑う彼の笑みを横目に、僕は今日もその木でできた小さな船に乗り込み船頭である彼へ行き先を告げるのであった。 「地獄まで。」 はいよぉと明るく返事をしながら、彼は今日も上機嫌で船を漕ぐ。 僕はその数十分間何もせず船の一番後ろに座り、彼と話をしている。 僕は毎朝毎朝この船に乗って通勤しているのだ。 不思議な話だろう。 ここは現実ではないと自分でも理解している。 気味の悪い空間だがもう慣れてしまった。 この空間に初めて訪れた時これは幻覚なのかもしれないと思い精神科に診てもらったこともあるのだが、鬱病気味だということ以外至って健康だった。 鬱病で幻覚を見ることはない。 だったら、この景色は、空間は、世界は、彼は何なんだ? 答えはとうとう一年経っても出なかった為、もはやこれが日常となってしまった。 朝、通勤するとき玄関を開けたら真っ黒な水で埋もれた海が広がっていて、目の前に僕専用の木舟が留まっている。 その船の上にはいつも服のフードを深くかぶっている為顔がよく見えない船頭がいる。 お代は要らないよと笑う彼は、僕を会社の玄関先へと送ると何処かへ帰っていく。 「お兄さんも毎日大変だねぇ。」 「…まぁ。」 「そりゃそうだよねぇ。朝からそんな疲れた顔をしているんだもの。もっと笑いなよ。ちょっと怖いよ?」 「会社の接待で嫌になるほど笑うから大丈夫。」 「ははっ。そうだった。お兄さんは一番ストレスが溜まる部署に勤めてるんだったね。」 「営業部だよ。多分こんなにストレス溜めてるのは僕だけ。」 「そうなの?ストレス発散法とか沢山あるじゃない。やってみたら?」 「どれも合わないしそれをじっくりやる時間も無い。」  「そっかぁ。たまにはドカンと大きな休みが欲しいねぇ。」 「まったくだ。」 江ノ原さんと話すと話題が弾むなぁと笑う彼。 これほどまで気軽に話せる相手なんて久々に出会った。 それなのに僕は彼の名前も年齢も顔さえも知らない。 友達とは言い難い関係にあった。 彼とは喜んで友達になりたいのに。 聞いても答えてくれない。 話を逸らす。 なんだか少し悲しかった。
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