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慎重に草を踏み分け、獣道とも呼べないほど心許ない道を進む。
頭を濃紺のバンダナで包み、黒の羽織を翻して男はふと足を止めた。
羽織の背には、ひとりの天女が描かれている。まろい輪郭と唐衣に包まれたなよやかな肢体。手にはころりと丸みを帯びた弦楽器。
天女の隣には細筆で書いたような「辯才天」の文字。
「……かかってるな」
僅かに掠れた低い声がその唇から漏れた。
遠く、荒い息遣いが聞こえる。苛立ったような獣のそれに、男は肩にかけた猟銃を下ろす。
より慎重に足を進めて辿りついた場所には、一頭の猪が腹這いになっていた。
その右前脚をぎっちりとワイヤーに絡め取られ、鼻息荒くもがくがすでに長いことそうしていたのかその様子には力強さが欠けている。
男は足音を立てずに猪に近づき、数メートル離れた場所から血走った目を向けて威嚇する獣の体躯を眺め、小さく頷く。
「……まあ、及第点だろ。よかったよ、お前が掛かってくれて。手ぶらになるところだった」
そう言うと手にした猟銃を構え、猪の心臓を狙って引き金を引いた。銃声が辺りを揺らすように重く響き、猪の巨躯がびく、と跳ねる。
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