第1章

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 まだ高校生だというのに、この歳で既にそんな線香の香りを懐かしいと美来は感じていた。  美来は母親との思い出をあまり持たない。幼稚園の年長組に上がる頃、頻繁に父や祖父母に手を引かれて病院へ行ったことを覚えている。ベットの上の母が裁縫をしていたのを、薄い紙に包まれたようなぼやけた映像として脳裏に呼び起こすことがある程度だ。他にも自分はいつも笑っていたような気がする。泣いたり怒ったりする顔は、母との思い出から省かれている。知らず知らずのうちに、だが故意に、そうして思い出を選んでいるのかも知れない。今思い起こすと、裁縫をしていた時の母は身体の調子が良かったのだと思う。いつもそう思って、美来が思い出そうとする母との思い出は終わる。  父は、美来の住む地方都市に基盤を置く食料品、生活雑貨を主に扱う総合スーパーに勤務している。地方都市周辺の市町にも系列のスーパーがあり、手広く運営している。以前は、店舗開発を行う部署に配属されていたが、美来の母親が他界してからは、店舗開発の為に土地土地を回る出張も多い部署から総務部へ異動した。それを機に、祖母が住む町のマンションに越して来た。  食事は週末に作り置きが基本だ。夕食は美来が作る日もあれば、祖母が訪ねて来て作ったり、美来が祖母の家で食べたりした。学校の授業参観も季節の行事も父は律儀にこなした。それが出来る時間と余裕がこの地方都市にはまだ残っていた。父もそうすることで、会社以外でも自分を保っていたのかも知れない、と美来は思う。嬉しくもあり、やるせなくもある。 「美嘉ばあ。お父さん、もう寝ちゃったよ。洗い物は私がするから美嘉ばあももう休んで。布団引いてあるから。掃除とかお正月料理とかいつもありがとう。今日は疲れたでしょう。特に猫とか」  と美来が美嘉ばあがの背中を擦った時、美嘉ばあは黙って笑った。美嘉ばあが少しでも涙を浮かべる表情は、除夜の鐘よりも強烈に、また一年年を重ねるのだ、と美来に思わせた。  祖母と父は仏間で寝入った。洗い物を終えた美来は、炬燵布団のへりで丸くなっているミケを抱え、二階へ上がった。  お、重い・・・。  今となっては、この家にも美来の部屋がある。小さな勉強机の隣にベットを入れてもらった。いずれ祖母の足腰が悪くなった際には、このベットを一階に下ろして使ってもらえばいい。そのベットの上にミケを下ろす。  どっこいしょ・・・。
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