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遡ること五日程前のことである。
午前零時をとうに過ぎた頃、冷えて硬くなった革靴をコツコツと鳴らし、男は自宅アパートの階段を上っていた。男が居を構えるこの街は、冬の冷え込みが厳しく、殊に深夜ともなれば息も凍てつく寒さになるので、男はいつも、コートの襟に口元から頬までをすっぽり包み込み、なるべく顔の皮膚を外気に晒さないようにしながら深夜の家路についていたのであった。
明かりの消えた自宅の鍵穴を回し、冷え切ったノブに手を掛け乱雑にドアを開けた。片足の靴の踵をにもう片方の爪先をひっかけて革靴を脱いでいると、男の体温を感知して玄関の白熱灯が点灯した。
さて、暖色の光が灯ったその瞬間、男はすぐに異変を感じ取った。いつもは雑然としている玄関の三和土が、きれいさっぱり片付けられており、下駄箱を開けて中を覗くと、大小の靴が揃って納められていた。
不穏な胸騒ぎを覚えながら、部屋に入って照明を点ける。平時、娘の絵本やら玩具やらで散らかっている居室も、シンクに汚れた食器が放置されているキッチンも、嘘のように整然とし、人の体温を感じさせぬ冷えた空気に支配されていた。
寝室の襖を開ける。平時引きっぱなしの布団が、部屋の隅に畳んで置かれ、横になっているはずの妻と娘の姿がなかった。
男は口を半開きにしたまま、しばらく顎骨に沿って無精髭を撫で回していたが、やがてトイレと風呂場、次いでベランダやクローゼットの中までも見て回り、妻と娘の不在を確かめると、居室に引き返し、鞄を拾い上げてがさごそと中身を弄っていたが、やがて中から携帯電話を取り出した。
妻子の予期せぬ行方不明という事態に出喰わしながら、取り乱すこともなく、家が綺麗に片付けられていることからも不測の事件や事故に巻き込まれたことはなかろうと、あたかも他人事のように考えたのは、他ならぬ心当たりというものが、男の胸の内に膨れ上がっていた所為であった。
はたして、携帯電話に溜まっていた電子メールを検めていくと、半日以上前に届けられていた妻からのメールを発見した。
件名のないそのメールには、わずか一行、こう書かれていた。
実家にいます。暫く戻りません。早苗は連れて行きます。
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