テンジクネズミ

7/17
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ
 皮脂の臭いが染み込んだ布団を敷き直し、頭まで潜り込んでみたが、胸の内に己に対する悔悟と弁明、妻に対する憐情と憎しみ、娘への離愁と、様々な感情が無秩序に、壊れた回転木馬のようにぐるぐると去来するので、男がなかなか眠りにつけぬもの無理からぬことであった。  今になって考えてみれば、妻も職場に多少なりとも迷惑をかけながら、幼い早苗の下の世話に何日もかかりきりになるのは辛い思いであったであろう。食器のひとつくらい、俺が洗ってやってもよかったかもしれない。  しかし、俺とて遊んでいる訳ではない。上司の叱責や取引先からのクレームに怯えながら、毎日飯もろくに取らずに夜中まで、先の見えない膨大な仕事に従事する気苦労は、パートタイマーという緩い立ち位置にいる妻には到底想像に届かないのだ。それに、仕事の分量を比べてみれば、俺の方が遥かに多いことは明らかなのだから、やはり俺が休みを取って早苗の面倒をみるなどということは、どう考えても理に叶わぬではないか。  にも関わらず、己だけが悲劇の主人公だとでも思い込んでいるのか、何の断りもなく勝手に家を出ていくとは!しかも早苗を連れて!  早苗はまだ三歳を迎えたばかりであるが、保育園に行きだしてから、言葉をたくさん覚えて、家でもよく喋るようになってきた。休みの日、疲労に押しつぶされて眠りこけている俺を見つけると、無邪気に腹の上に乗っかってきたり、布団に入ってきて?を引っ張ったりしたものだ。その時は煩わしく感じたが、今思い返すと愛おしさの余りに気がおかしくなりそうだ。  ああ、早苗はどうしているだろう。突然長旅に連れ出され、疲れてまた具合を悪くさせてやいないだろうか。義祖父母には懐いているだろうか。どうせ妻は、俺の悪口を散々義父母に聞かせていることだろう。自分の知らないところで、俺は家庭を顧みず仕事も出来ない、役立たずのレッテルを貼られているに違いないのだ!  しかし、早苗にはまだそんな話は理解できないだろう。家に戻ってくれば、またパパ、パパと男のシャツの裾を引っ張って、保育園で覚えたお歌やお遊戯を男に見せてくれるだろう…  ウーッ、ウーッウーッ、ウーッ  まもなく明け方を迎えようかという頃、男の口から漏れ出た低い呻き声が、アパートの一室に響いていた。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!