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結局、一睡もできぬまま夜が明けた。部屋の中に冬の弱々しい朝日が差し込み、徐々に徐々に明るみを帯びていくにつれ、胸の奥に鉛の塊がずぶずぶと沈んでいくような感覚を覚え、男は吐き気を催した。
いつも通り会社に行き、所定のデスクに付いてはみたものの、気がつけば昨晩と同じような塩梅で愛憎入り混じった感情が次から次へと胸の内に湧き出してくるので、仕事に身が入るはずもない。脳の思考回路もほとんど働かなくなり、むべなるかな、さほど重要でもないどうでもいいようなことにばかりに目が向き、正気の人間であればものの数分で済ませられるであろう作業に、何十分、果ては何時間をも費やし、気がつけばいつものように深夜を迎えているものの、振り返れば一日結局何をしていたのか自分でもまるで分からないという有様であった。
無足無益な日々を幾度か重ねたある日の夕方、男宛に取引先から電話がかかって来た。お定まりの口上の後、受話器の向こう側の相手はこのようなことを述べた。
「○○案件のお見積、本日のうちにいただくお約束ですが、いまどのような状況でしょうか」
さて、その言葉を聞いた瞬間のことを男はよく記憶していないのだが、とにかく全身から一気に血の気が引き、元から碌に働いていなかった脳が一瞬で完全な白痴に陥り、あろうことか何も言わずにそのまま受話器を戻してしまった。
大事な取引先に出さねばならぬ見積書に、一切の手が付かぬまま締切の日の夕方を迎えていたことに、この瞬間、初めて気づいたのであった。
上司が平身低頭しながら、電話越しに取引先へ必死の謝罪を入れているのを横目に、男は今にも失禁しそうになりながら、パソコンのキーをガチャガチャと叩いていた。
同僚達からは助けが要るかと問われたが、これまで一度も開示したことのない自分の仕事をはなから他人に説明するのは、比類この上なく面倒に思われたし、それに手伝ってもらったが最後、そいつに死ぬまで頭が上がらなくなり、更には家庭の面倒ごとまで知られてしまうような気がして、今日一晩あれば何とかできると男は見栄を切って断った。一人、また一人と社員が姿を消して、やがて、深夜の事務所には男一人が残ることとなった。
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