陸 見渡せばいと鮮やかなる

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陸 見渡せばいと鮮やかなる

 ドールハウスを大きくしたような、かわいらしさと上品さが同居した外観の建物。知る人ぞ知る穴場の喫茶店、カフェ・アーカーシャのドアには『CLOSED』の札が掛かっていた。『諸事情により二日間休業』という張り紙が添えられている。  主婦と思われる二人組の女性が張り紙を見て残念そうに立ち去った。  アーカーシャのスタッフ一同はお客様を連れてお出掛け中である。  朝早くに恭介のマイカーで出発した一同は、途中に休憩を挟みながらも昼過ぎ頃には滝上町に到着した。駐車場に車を停め、恭介が後部座席を振り向く。 「みんなー、着いたよー」  リラとチャイルドシートに座った真白が寄り添うようにして眠っており、その隣で飛歌流もアイマスクをして座席に寄り掛かっていた。助手席に座る俊哉は不気味な笑みを浮かべながら夢を見ているらしい。  ドアミラーを確認すると、サダが近付いてきているのが見えた。実体のない浮遊霊には体力の限界などというものは存在しない。文字通り浮遊しているのだからある程度までは浮くことができるし、老婆が出せるレベルではない速さで車を追い駆けることも可能なのだ。  恭介は俊哉の肩を揺する。 「ほら、着いたから起きて。みんなも」 「あぅ。……んう、何ですかオーナー」 「着いたよ」  四人は眠たそうに体を起こす。 「ぼーっとしないで、早く目を覚まして。これから仕事なんだから」 「きょうちゃんに言われたくないー」  もうひと眠りしたそうな真白がチャイルドシートに体を埋めるが、一足早めに覚醒した飛歌流によって引き剥がされてしまった。  リラが車を降りると、丁度サダが追いついたところだった。札幌から滝上まで走って来て、全く疲れた様子はない。  大人三人の入園料を払い、芝桜公園に入る。姿の見えていない俊哉と真白、サダは料金を払う必要がないためそのままリラ達の後に続いた。  丘の上にはピンク色の絨毯が広がっていた。一面の芝桜からは甘い香りが漂っていて、まるで花に包まれているかのようである。のんびりと芝桜を見ながら一行は歩いて行く。 「サダさん、何か思い出しませんか?」  リラに問われて、サダは首を傾げる。 「ごめんなさいねえ。分からないの」  遺族の話によると、芝桜が最も有力である。この公園が外れだった場合振出しに戻ってしまう。  きゃー! と歓声を上げながら真白が駆け出した。ぴょんぴょんと跳ねながら花々の周りを回っている。その様子を見て、孫を見守るようにサダが目を細めた。 「すごいすごい! ねえねえ! つぐみんつぐみん! お写真撮って!」 「何で俺なんだよ」 「えー? 駄目なの? つぐみんお写真上手でしょ」  面倒くさそうに俊哉はスマートホンを真白に向ける。適当に連射をすると、それでも真白は満足した様子で走って戻ってきた。画面を覗き込んで確認し、きゃっきゃきゃっきゃと嬉しそうに跳ね回る。  サダはそんな二人の様子を見つめていた。  家へ行った時、遺族は写真を見せてくれた。この公園で撮った写真だ。  リラはサダに歩み寄る。 「サダさん、ここで旦那さんと写真を撮ったんですよ」 「あら、そうなの?」 「えっと、たぶん場所は……」  リラがきょろきょろしていると、俊哉が少し先の方を指差した。 「もう少し上の方だと思う」 「そっか、ありがとうございます」 「私と飛歌流はここで真白を見ているから、俊哉と二人でサダさんを連れて行きな」 「分かりました、恭介さん」  サダを連れ、リラと俊哉は丘を上る。傍から見ればリラ一人だが、まだ八分咲きであることに加えて平日の為観光客はまだまばらで、普通の声量で会話をした。  孫は今頃リラくらいだろうか、とサダは言う。実際はリラよりも少し年上だと考えられるが、リラは「そうですね」と答えることにした。 「どうですか。何か思い出しました?」 「うーん。どうかしら……。ちょっとまだ、ぼんやりしていて……」 「ゆっくりで大丈夫ですよ」  前方を歩いていた俊哉が立ち止まり、丘を見下ろした。大きく目が見開かれ、口角がつり上がる。空気そのものを撫でるかのように緩やかに上げられた左手が胸元に添えられる。  どうしたのだろう、とリラとサダも立ち止まって俊哉を見る。  すぅっ、という音が聞こえるくらい大きく空気を吸い込み、芝桜の香りを堪能してから静かに息を吐き出す。そして、ゆっくりと目を閉じた。  俊哉の纏う空気から一切の音が消えてしまったようだった。音を立ててしまわないように、リラだけでなく、音を立てることのできないはずのサダさえも緊張していた。 「見渡せば、いと鮮やかなる(くれない)の、花散る滝の、壺と(おぼ)ゆる」  見渡す限りの鮮やかな紅色は、花でできた川の先にある滝壺のように思える。  言葉が風に乗っているようだった。躊躇うことなく、流れるように紡がれた。  俊哉は目を開けて一息ついた。それが合図だったかように、場に満ちていた緊張感が消えていく。 「……短歌」  リラの呟きに俊哉が振り向く。 「ここから見るととても綺麗だね。見上げるのも美しいけれど、見下ろしても美しい」  サダを連れてリラは俊哉に駆け寄る。並んで見下ろすと、眼下に広がる一面のピンク色が目に飛び込んできた。飛歌流に写真を撮ってもらってはしゃいでいる真白と、それを見守っている恭介の姿が見えた。  リラははっとして目を見開く。 「ここって……。サダさん、ここじゃないですか」 「え? ここかい?」  サダがリラに近付く。すり抜けてしまうサダの左腕がほんの少しリラの右腕に重なった。 「あぁ……。綺麗だねえ……」  老眼鏡越しの弱々しい瞳に光が差す。足下の芝桜には雫が落ちたが、それは花びらに乗ることもなく消えていった。 「忘れてしまって、思い出すこともできない。それでもこんなに嬉しいのだから、きっと私は見付けたんだね。おじいさんとの、大切な……」  言葉を詰まらせ、サダは嗚咽を漏らす。触ることは叶わないが、リラはそっとサダの手を握った。 「サダさ……おばあちゃん。しっかり見て。もう忘れないように。おじいちゃんにまた会った時、この景色のことを話してあげて。楽しい思い出話には、きっと花が咲くはずだから」  サダはぽつぽつと涙を零しながら頷いた。夫と二人で見た思い出の景色。今度は忘れてしまわないように。どれだけ時が経とうとも、二人を繋ぐ花を見付けられるように。  何度も何度も頷いて、サダは空を仰いだ。老婆が空に描くのは夫の顔だろうか、それとも、その隣で笑う自分の姿だろうか。それとも、二人が仲睦まじく並んでいる様子だろうか。  ありがとう。その言葉を聞くまで、リラと俊哉はサダを黙って見守っていた。二人を交互に見て、サダは破顔する。それにつられて二人も笑った。  恭介達と合流して駐車場へ歩いていると、サダが「あっ」と声を上げた。振り向いたリラの目に入ったのは、まばゆい光を纏ったサダの姿だった。足先の方が透けて地面が見えている。 「おばあちゃんっ」 「私……もう、思い残すことはないんだね」 「でも、これじゃあ」  最期の一杯が……。言いかけたリラの肩を飛歌流が叩く。 「大丈夫、後は俊哉君に任せて」 「えっ」  恭介が投げた車の鍵を受け取り、俊哉が駐車場へ走って行った。そして、ステンレスボトルを手に駆け戻ってくる。若干息が上がっていたが、すぐに整えてボトルの蓋を開ける。周りには甘酸っぱい香りがふんわりと広がった。  蓋をコップ代わりにしてコーヒーを注ぎ、サダに差し出す。下半身が消え始めていたサダは戸惑った様子で手を出した。 「でも私はそれを」 「持てます。飲めます。我々は最期の一杯を提供するのが仕事なんですから、しっかりとお届けいたします」  俊哉の瞳に差す黄みが強くなり、一瞬金色に光った。 「大丈夫。落ちないから受け取って」  恐る恐る手を差し出し、コーヒーで満たされた蓋を手に取る。それに驚いたのはサダだけではなく、リラも声を上げた。 「貴女のためだけに作った珈琲です。桜の香りに、旦那さんとの甘くて酸っぱい思い出を添えて。見渡せばいと鮮やかなる紅の花散る滝の壺と思ゆる。この景色はきっと、貴女のこれからをも彩ってくれるでしょう」  サダは蓋に口を付けた。鼻と口と、体中に香りが広がっていく。光となって消えていくサダの体とともに、周囲にも甘い香りが広がっていく。 「美味しいねぇ……。ありがとう、本当に……。彼に、よろしくね……」  おばあちゃんのくしゃっとした笑顔を最後に形作って、光は消えた。支えのなくなったボトルの蓋が地面に落ちる。  リラは蓋を拾い上げる。 「最期の……一杯……。おばあちゃん、とても幸せそうだった」 「持ってきておいて正解だったね」  リラから蓋を受け取り、ボトルに載せながら俊哉は言う。 「逝ってらっしゃい、サダさん。お元気で」  一同の周りを回った風が、ピンク色の絨毯の敷き詰められた丘を上っていく。 
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