漆 削れたページ

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漆 削れたページ

「鶫さん、あれ、どうやったんですか。浮遊霊は物を持てないんですよね」  帰りの車中でリラは問うたが、俊哉からの返事はなかった。代わりに恭介が答える。 「ごめんねー。俊哉疲れてるから明日にしてもらえるかなあ」 「あっ、すみません」  ルームミラー越しに恭介はリラを見る。 「お疲れさま、リラちゃん。いい働きだったね。君をアーカーシャのスタッフとして正式に認めよう。本採用だよ」 「え、あ、ありがとうございます!」  リラの声に驚いた真白が目を覚ましたが、すぐに目を閉じた。はしゃぎすぎて眠くなってしまったらしい。飛歌流がブランケットをかけてあげる。  信号待ちで恭介が振り向いた。 「改めて、これからよろしくね。帰ったら書類を書いてもらうけどいいかな」 「はいっ、よろしくお願いします!」           ◇  アーカーシャのドアには休業の張り紙が貼ってある。リラは横の通用口から中に入った。通用口は入り組んだ廊下と繋がっているらしく、どこへ進めばいいのか分からなくなってしまう。壁をべたべたと触っていると、頭上から声が聞こえてきた。リラが見上げると、壁に付けられたフックの上にリスのようなネズミのような小動物が留まっていた。  小動物は手足を広げてリラの方へ滑空してくる。 「うわわわわわっ」  ぶつかる。その直前で革靴が床に降りる音がした。反射的に目を瞑ってしまっていたリラが確認すると、目の前にいるのは飛歌流であった。長い髪を紐でまとめ上げながらリラを見る。 「ひか、飛歌流さん」 「おはようございます木山さん。昨日の今日ですが、お疲れではありませんか?」 「平気です。陸上部だったころはもっと飛んだり跳ねたり走ったりしてたんで」 「それならよかった。書類、書き上がりましたか? 完成しているのならば僕がオーナーへ届けて来ましょう」  リラはバッグからクリアファイルを取り出し、書類を飛歌流に渡す。 「お願いします」 「はい。確かに受け取りました。……俊哉君にご用事ですよね。部屋まで案内します」 「ありがとうございます」 「あそこより向こうは靴を脱いでくださいね」  これからここで本格的に働くことになるのだから、裏の間取りを覚えていた方がいいと飛歌流は言う。  案内された部屋の前で別れ、飛歌流は更に奥へ奥へと歩いて行った。外観の見かけに比べて非常に大きな建物らしい。  一応ノックをしてからドアを開ける。  部屋の中央に布団が敷かれており、そこにアザラシの抱き枕を抱えた俊哉が横になっていた。リラの気配に気が付いたらしく目を開ける。 「おはようございます、鶫さん」 「んー、おはよー。元気だねえ」 「元陸上部を舐めないでくださいね」 「俺はもう無理だあ。今日店が休みなのは俺が本当に何も機能しなくなるからなんだよね。ごめんねせっかく採用されたっていうのに」  アザラシの柔らかな腹を抱きしめながら俊哉は言う。  リラは枕元に腰を下ろした。陸上トラックを走っていた頃より長くなっている髪を掻き上げ、耳にかける。下を向いたため、それでも何本かが束になってぱらぱらと落ちてきた。 「鶫さん、昨日のあれってどうやったんですか。サダさんに蓋を持たせるやつ」 「霊媒師の式が刀や弓で触れられないはずの悪霊と戦うのと同じ。武器じゃなくて、かっぷやぼとるで触れられるようにしているだけ。ただ、こんな風に倒れてしまうからたまにしか使えないんだけどね」 「すごいですね」  リラの素直な感想に、俊哉は表情を曇らせる。 「すごくなんかない。俺は特別強い霊力を持っているわけではないし、いんどあ派だから戦闘力も持っていない。オーナーが霊媒師やイタコだったら俺はお払い箱だろうさ」 「でも、鶫さんの力のおかげでコーヒーを提供できているんですよね。それってやっぱりすごいじゃないですか。人と比べなくたって、鶫さんは十分すごいんですよ。個性って大事だと思います」  俊哉はアザラシを抱きしめる。 「私、ここで働けるようになってとても嬉しいです。これからはバイトじゃなくて後輩ですからね。……まだ内定の時期じゃないから公的にはバイトですけど」 「んう」 「人はいつか死んでしまうけれど、その人の思いって消えないんだなって。なんだか温かい気持ちになりました。やりがいのある仕事だと思います、とっても。……鶫さんは、どうしてここで働いているんですか?」  アザラシの頭を撫でながら俊哉はゆるりと起き上がった。机の上に置かれた本をちらりと見てから、リラを見る。 「オーナーと出会った時のことも欠落し始めていて、どうして俺はここにいるんだろうって思う時もある。でも、俺は……」  手に力が入り、アザラシの頭は痛々しく歪んだ。引き攣って不気味な顔になったアザラシは天井を物悲し気に見上げている。 「俺は、人を探しているんだ。これだけは覚えている。とても大切で、手放したくなくて、いつまでも見ていたい、そんな人だった。忘れてはいけない人、思い出さなければならない人なのに、俺の記憶は消えていく……。いつか探していることさえも忘れてしまうかもしれない。そうなる前に、見付けないと。ここにいればたくさんの幽霊や妖怪に会えるだろう。もしかしたら、いつか、ここに来てくれるかもしれないし、手掛かりが見付かるかもしれない。もう、名前も顔も、思い出せない……けど……」  次第に声が途切れ、小さくなっていく。アザラシの背中に顔を突っ込んで、座ったまま俊哉は眠ってしまった。 「……おやすみなさい、鶫さん」  リラは俊哉の部屋を後にする。帰る前に恭介に挨拶をしておこうと思い廊下を歩き始めたリラだったが、まだ飛歌流に間取りを教えてもらっていないため見事に迷った。右往左往していると、背後から階段を降りてくる足音が聞こえた。振り向くと恭介と目が合った。  懐手をして大きな欠伸をしながら階段を下りていた恭介は、リラと目が合うと居住まいを正した。リラは胡乱な目を向けて階段の上を見上げる。オーナーの威厳を保とうとしたが失敗に終わったようである。 「や、やあ、リラちゃん。書類受け取ったよ」 「よろしくお願いします」 「よろしくね。まだ学生だから、とりあえずは暇な時に来てくれればいいよ。勉強が本分だからね。後でシフト組むよ」 「はい」 「就活お疲れ様。お家の人にも言ってあるんでしょ?」 「はい。喫茶店で内々定貰ったって伝えてあります」  恭介は懐から巾着袋を取り出した。手を出すようにリラに言うと、何かを取り出して掌に載せる。 「私からプレゼントだよ」  リラの手の中にはライラック柄のお守り袋が握られていた。得意げに笑い、恭介は自信満々に胸を反らせる。 「厄除けの御守りだよ! ここに悪霊が来るのなんて極々稀なことだけれど、外には色々いるからね。持ってて損はないと思う」 「ありがとうございます。恭介さんが作ったんですか?」  得意げだった恭介の表情が一瞬にして曇った。 「私は陰陽師。できることは占いだけだ。それは知り合いの除霊師に作ってもらったものだよ。間違えても俊哉やお客さんに投げ付けないでね。消えはしないけどだいぶダメージ受けるみたいだから」 「気を付けます」  リラは御守りをバッグにしまった。  リラが立ち去ってからしばらくして、俊哉はアザラシの上で目を覚ました。まだぼんやりとする頭を上げて机の上を見遣る。  風に捲れるページ。最初の方のページには筆で書き込みがされている。  再び深い眠りに落ちてしまった俊哉を呼ぶように、ページはしばらくの間ぱらぱらと捲れていた。     
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