弐 森の子守歌

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弐 森の子守歌

 鍵を差し込み、恭介がドアを開ける。掛けられた札は『CLOSED』のままだ。振動でベルが小さく音を立てた。オーナーを追い越す勢いで店に入った俊哉がラジカセの電源を入れ、店内には雅楽のCDが流れ始める。  リラはカウンター席に着いた。その隣に飛歌流が座る。真白はかっちゃんと並んで立っていた。 「さっき、どうして飛歌流さんの髪に触ることができたんですか? 浮遊霊は妖怪にも触れないんですよね」  後は任せた、というように奥へ行こうとしていた恭介が立ち止まって振り向く。 「リラちゃんは、ポルターガイストって知ってるかな」 「勝手に物が動く、あれですか?」 「あれって何で動くって言われてる?」  霊感を持っている。だからこそ、リラは心霊番組などを見ないようにしていた。出演者に見えていなくとも、カメラ越しに見えてしまうことがあるからだ。それでも、その不可思議な現象については聞いたことがあった。 「……幽霊の仕業だって言う人もいますよね」  恭介が指を鳴らす。 「そう。でも、式はそんないたずらしないだろう? ああいうことをするのは浮遊霊や地縛霊だ。でも、実体を持たない彼らが物に触れることはできない。では、どのようにして動かしているのか。はい、俊哉!」 「えっ! 俺が答えるんですか。……あれはだいたい悪霊化してるんだよ。悪霊の放つ瘴気は周囲の物に作用する。触っているんじゃなくて、扇風機を持って走り回っている感じ」  かっちゃんは店内を興味深そうに眺めていた。真白がシーリングファンやからくり時計を説明している。  ドアノブに手を掛け、すぐに奥へ引っ込める体勢で恭介は一同を見ていた。 「子供は不安定だ。すぐに悪霊になってしまう子もいる。どうしてこんなに早く死んでしまったのだろう。もっと遊びたい、ってね。例え純粋無垢なままでも、子供の霊は無邪気で残酷で、知らない間に感情を高ぶらせて瘴気を纏ってしまうんだよ。飛歌流の髪に触ることができたのは、その子が指先に意識を集中させていたからだよ」  ドアが軋む。 「まだ大丈夫そうだけれど、生きている相手に接触できるってことは急いだ方がいいかもしれないね。……私は部屋にいるよ。お腹いっぱいで、疲れてしまったしね」  仕事したくない。と顔にはっきり書かれているオーナーは、逃げるように奥へ行ってしまった。  残されたリラはカウンターの中にいる俊哉を見る。 「こんなに小さい子、きっと色々やり残したことがあるんですよね」 「……悔いなく、送り出してあげないといけないね」  真白はかっちゃんとすっかり仲良くなったようで、テーブルの下や椅子の横などをくるくる回って追いかけっこを始めていた。ぽんっと猫の姿になった真白を見てかっちゃんが歓声を上げる。  楽しそうな子供達の様子を見て、大人三人は自然と顔がほころんだ。  リラは席を立つと、目線を合わせるようにして屈んだ。かっちゃんの正面だ。 「かっちゃんは自分の状況分かってるのかな」 「うん! 死んじゃった!」 「そうだね。じゃあ、こんなことやりたかったな、とか、もう一回お母さんに会いたい、とか、そういうのある?」  かっちゃんは大きな瞳をきらきらさせながらリラを見ていた。ゆっくりと両手を上げたかと思うと、リラに飛び掛かる。しかし、見事にすり抜けて転んでしまった。 「だ、大丈夫?」 「むー。ぼくねえ、おねーさんくらいの人のぴょんぴょん見る!」 「……ぴょんぴょん?」  振り向いたリラに対し、俊哉は首を捻る。飛歌流も首を横に振った。さらりさらりと揺れ動いた長髪に再びかっちゃんが飛びついた。今度はリラのようにすり抜けることはない。低い位置から思い切り引っ張られ、飛歌流は少しのけぞった。  何度言っても分かってくれない子供はいるものだ。仕方ないなあとリラは笑った。しかし、俊哉はコーヒーを淹れようとしていた手を止めて真っ青になっている。 「触るなと言いましたよね。僕、二度も嫌がりましたよね」  椅子を回転させて飛歌流はかっちゃんを振り向き、見下ろす。普段穏やかな印象を周囲に振りまいている顔には明らかな怒りが浮かんでいた。 「僕を苛立たせない方がいいですよ」  立ち上がった飛歌流が大きく息を吸い込む。そして、両手を広げた。 「眠れ」  そこまではリラも覚えていた。  しかし、気が付くとカウンターに凭れて眠っていたのである。真白は猫の姿で丸くなっており、眠らないかっちゃんはぽかんとして床に座っている。俊哉はカウンターの中で眠っていた。  壁にかけられているからくり時計は先程から二十分経っていることを示している。リラに声をかけられて目を覚ました俊哉は飛歌流を睨みつけた。 「やめて飛歌流さん。カップ磨いてる途中だったらどうするんだよ」 「知りません」 「あの、何が起こったんですか。知らない間に眠っちゃったみたいなんですけど」  飛歌流の髪が解けていた。紐で束ねながら、かっちゃんを見下すように見下ろす。 「僕としたことが。浮遊霊相手に歌っても何も起こらないということは分かっているはずなのに」 「歌、う……?」  飛歌流はリラの方を向いた。貼り付けられたような微笑みが浮かべられている。  店内には小さな本棚が置かれており、ごく普通の喫茶店のように雑誌や絵本、コーヒーの本などが並べられている。飛歌流はそこから一冊取り出すと、リラに差し出した。 『アイヌの神様』  表紙にはヒグマの絵が描かれている。表紙を捲り、ページを捲っていくとモモンガの説明が書かれているページに行き付いた。 『エゾモモンガ アッカムイ (子守の神・子守歌の神)』  本と飛歌流を見比べ、リラはもう一度本と飛歌流を見比べた。  野衾とはムササビに似た妖怪で、ムササビそのものとも言われている。ムササビとモモンガの外見はそっくりなため、モモンガバージョンの野衾であると最初に説明された時に特に疑問は持たなかったのだ。  リラは本と飛歌流を何度も何度も見比べた。 「……飛歌流さん、もしかして妖怪じゃない……?」 「さて、どうでしょう?」  野衾ではなくアッカムイであるならば、この長髪の男は妖怪ではなく神なのだ。仏の顔も三度までとはよく言ったもので、仏ではないがこのモモンガも三度目で行動を起こした。 「僕は飛歌流。ここのスタッフ。それだけ分かっていれば十分でしょう」  歌うことで近くにいる者を眠らせることができるなどという野衾の説明を見たことがなかったリラは、半ば確信していた。これは所謂神の奇跡なのだ、と。  北海道に住むアイヌの人々が語る神々の中には、人の世に現れる際動物の姿を借りる者が多い。クマもフクロウもシャチも神なのだ。本には様々な動物達が描かれている。リラは本を閉じ、飛歌流に差し出した。 「もし本当に神様なら、どうしてここで働いているんですか」 「……僕は飛歌流。野衾の飛歌流ですよ。けれど、不快なことはしないでくださいね。眠った後に、目を覚ますことができるとは限らないのですから」  アイヌの本を棚に戻し、絵本を手に取る。 「では絵本を読んであげましょう。子供の相手は僕に任せて、お二人は考察でもしていてください」  かっちゃんと寝惚けている真白を連れて、飛歌流は隅の席へ移動した。  カウンターの中では、ようやく緊張が解けた様子の俊哉がコーヒーをカップに注ぎ始めていた。クリームを絞ったウインナーコーヒーがリラの前に置かれる。 「リラさんはどう思う、飛歌流さんのこと。あの人って妖怪なのか、神様なのか」 「そうですね……。私、神様は見たことないのでなんとも……。でも、あれは野衾の技ではないと思います」 「そうだよねえ」 「けれど、たぶんそんなのどっちでもいいと思うんですよ。ここに来るのは幽霊や妖怪。みんな秘密の一つや二つ持っています。飛歌流さんも、きっと」 「本人が言うように飛歌流さんであることに間違いはないものね」  俊哉は自分用にもう一杯ウインナーコーヒーを淹れて飲んでいる。 「あの子、かっちゃん。あの子はどうすれば満足するんだろう」  子守の神、と(おぼ)しき飛歌流が絵本を読み聞かせている声を聞きながらリラと俊哉は顔を見合わせる。困った末に曖昧な笑顔を浮かべたリラを見て、俊哉は赤くなりながら目を逸らした。          
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