317人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
参 呼び声
ぴょんぴょん。擬態語である。かっちゃんはぴょんぴょんを見たい。小さな子供からそれ以上の情報を引き出すことはできなかった。ライラックを見に、もといラーメンを食べに行ってから数日。真白とかっちゃんは仲良くなったが、それ以外の進展はなかった。
ママ友らしき二人組が来店し、リラは接客に当たっていた。相手が生きた人間であるため、カウンターにいるのは飛歌流だ。俊哉はどうにかしてかっちゃんから何か聞き出せないものかと奥で奮闘している。
「ねえ、かっちゃん。ぴょんぴょんって何?」
「ぴょんぴょん!」
そう言ってかっちゃんは飛び跳ねた。真白もそれに合わせて飛び跳ねた。すると楽しくなってきたのか、二人は交互にぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。かっちゃんに貸し出している部屋の隣には旅をしているという妖怪が泊まっている。五月蠅いと怒られませんようにと祈りながら俊哉は二人の子供を眺めた。
かっちゃんの身形はごく普通の子供で、何十年も何百年も前に亡くなったとは考えにくい。最近の子供なのであれば、彼の語るぴょんぴょんというものも新しいものなのかもしれない。
「真白。かっちゃんのことを任せてもいいかな。お話聞いて、何か分かったら教えてくれ」
「うん! 任せて!」
俊哉は部屋を出ると、狩衣の懐から和綴じの本を手に取った。記されている文字は自分の筆致である。しかし、俊哉はその文章をいつどこで書いたのかを覚えていなかった。肌身離さず持ち歩いている本のことさえ、欠落してしまっている。誰かのために物語を綴ったはずだった。その相手は探している人物のことだろうか。それとも、別の人物だろうか。
自分が、いつ、どこで生まれ、どうして死んだのか。俊哉の記憶には濃い靄がかかっていた。長い時を過せば記憶は消えていく。たくさんのことを忘れてしまった。どれほど長い時間を歩いてきたのだろうか。それさえも分からない。
大切な本と、誰かを探しているという事実。それだけが鶫俊哉という幽霊の持つ最後の記憶だった。それさえも失ってしまった時、鶫俊哉は二度目の死を迎えるのだ。何も持たない、空っぽの幽霊になってしまう前に、あの人を見付けなければ。失った記憶を取り戻すことができたなら。
和綴じの本を捲る。まるで実際に体験したかのように、不思議な物語がリアルに描かれていた。
「……相手がいなければ、この続きを書くこともないだろうな」
俊哉は本を懐にしまう。店の方の様子を見に行こうとして、廊下の角を曲がって来た影にぶつかりそうになった。
「うわ。申し訳ありませんお客様。お怪我はありませんか」
「おっと、私だよ」
「オーナー」
袴姿の恭介が立っていた。普段のくたびれた着流しではないため、少しだけ男前に見える。と、本人が語る。
「お出掛けですか。お供しますよ」
「そうそう。呼びに行こうと思っていてね。飛歌流とリラちゃんには言ってあるから、さっさと行ってさっさと済ませて帰ってこよう。面倒臭いし」
霊媒師協会というものがある。
霊能力者を騙る詐欺師への対処や依頼の斡旋などを行うために作られた、霊能力者による霊能力者のための霊能力者の組織である。霊媒師や除霊師などは協会に所属していない場合、所属している者に騙りだと疑われることがある。陰陽師はあくまで占い師なので仕事の内容は異なるのだが、恭介のように所属している者も少なくない。今日はその定例会議である。
しかし、会議で話されるのは主に霊媒師達の活動報告だ。恭介にはほぼ無関係なのでいつも聞き流している。俊哉は手帳にコーヒーのブレンド案のメモをしており、こちらも聞く耳を持っていない。霊媒師から向けられる冷たい視線にも全く動じない二人は、北海道支部唯一の陰陽師とその式である。
退屈な会議を終え、恭介と俊哉は足早に帰ろうとした。
「待ってください、火野坂さん」
声をかけてきたのは十代前半と思われる少女だった。
「火野坂さんって、喫茶店をやっている陰陽師さんですよね」
「そうだけど、私に何か?」
後方では彼女の相方と思われる茶碗の妖怪が「はやくしてね!」と手を上げている。妖怪を連れているのだから、彼女は祓い屋なのだろう。
「裏稼業じゃなくて表の話なんですけど、これ、もしよかったらお店に貼ってもらえませんか?」
少女はエナメルバッグから丸めた紙を取り出した。その際、バッグの中にカラフルな布が入っているのが俊哉には見えた。
紙を受け取った恭介が輪ゴムを外してみると、それは祭りのポスターだった。派手な衣装を纏い、鳴子を手にした踊り子のイラストが描かれている。
「ねえねえ、ばっぐの中って衣装だよね。君も踊るの?」
狩衣姿の貴族風の男に訊ねられ、少女は少し赤くなった。
「はい、そうなんです。子供のチームなんですけど。……ポスター、お店に貼ってもらえます?」
恭介はポスターを丸めて輪ゴムを留める。
「分かった。目立つところに貼っておくね」
「わぁ、ありがとうございます!」
「えーと、来月? 再来週からだっけ」
「はい!」
「本番はもちろんだけど、練習も頑張ってね」
祓い屋の少女に手を振り、二人は歩き出した。
札幌には夏を告げる祭りがある。
高知県の祭りと北海道の民謡を合体させて生まれたといわれるものであり、毎年盛り上がりを見せている。祭りが始まるとアーカーシャにも微かに曲や歓声が聞こえてくるので、恭介達はそれによって夏の訪れを知るのである。リラの大学で練習をしていた学生達が参加するのもこの祭りだ。
祭りというものはよいものである。大勢が一つのことに向かって動けば、風は大きく揺れ動く。風流とはまた違うものだが、俊哉は祭りが好きだった。
「オーナー、今年も見に行っていいですか」
丸めたポスターを手にして俊哉は言う。
「駄目って言っても行くんだろ知ってるよ」
「音楽、舞、人々の歓声……。いとをかし」
突然放たれた古語に恭介は驚かない。どちらかというと悲しそうな顔になっている。
「俊哉」
「はい?」
「どこまで忘れた」
信号に引っ掛からない地下を歩くと早いため、二人は地下鉄の駅周辺に広がる地下街を歩いていた。カフェの近くで立ち止まる。
「えっ、な、どういうことですか」
「そのままの意味だよ。どこまで忘れたんだ」
いつになく真剣な様子の恭介につられて、俊哉も表情を強張らせる。
「私と出会った時のこと、覚えているかい」
俊哉の瞳が震える。
「そ、それは……」
いつ、どこで、何をしている時に恭介と出会い、彼に付いて行くことを決めたのか。二十代の頃の恭介を見たはずだ。だから約十年前。そこまで行き付くものの、俊哉は記憶をそれ以上遡ることができなかった。真白が来た時のことは覚えている。しかし、飛歌流に初めて会ったのがいつだったのかは分からなかった。
呆然としている俊哉を見て、恭介は軽く俯いた。
「そうか。無理に思い出す必要はないよ。人の記憶が削れて行くのは自然なことなのだから」
「オーナー。俺、怖いんです。このまま全て忘れてしまったら、俺は、鶫俊哉はどうなってしまうのでしょう」
恭介は溜息をついた。
「鶫俊哉、か……」
長めの前髪が赤みがかった目に被っている。
「それは君の名前?」
「えっ……」
何を言っているのか分からない。と俊哉は恭介を見つめる。自分は鶫俊哉という名前で、陰陽師である火野坂恭介の式である。そして、アーカーシャの店長だ。そのはずだ。
「俊哉、君は……」
思わずあとずさってしまった。俊哉は恭介を置いて逃げるように駆け出す。
怖い。恐ろしい。忘れてしまうことが。忘れてしまったと気が付けないことが。
転がり込むようにしてアーカーシャに入って来た俊哉を見て、リラは驚いた様子で駆けよって来た。客は犬の妖怪が二人。
「鶫さん、どうしたんですか」
「リラさん、俺は、鶫俊哉ではないのかもしれない……」
「へ?」
「これ、このぽすたー貼っておいて……」
丸めたポスターをリラに渡し、俊哉は奥のドアを開けて店を出て行ってしまった。入れ替わるように店に出てきた飛歌流が俊哉の背を振り向く。
「おや。……木山さん、俊哉君どうかしたんですか?」
「さ、さあ?」
しばらくしてから恭介が帰ってきたが、リラも飛歌流も事情を訊くことはできなかった。
アーカーシャのドアに『CLOSED』の札が掛けられる。そして、奥で遊んでいた真白とかっちゃんが店の方へ出てきた。
「あれー? つぐみんは?」
「鶫さん、帰ってきてからずっと部屋にいるみたい」
「そうなんだー。……あっ」
壁に貼られた祭りのポスターを見て真白が声を上げる。
「今年もあるんだね! わたし、これ好きだぞ!」
「賑やかだよねえ」
真白の後ろにいたかっちゃんも前に出て来てポスターを見た。小さな目が大きく見開かれる。そして小さな手でポスターを指し示した。
「ぴょんぴょん!」
「えっ!?」
リラはポスターとかっちゃんを見る。
「ぴょんぴょんって、これのことなの?」
激しく舞い踊る踊り子の様子をぴょんぴょんと表現していいのだろうか。どちらかというとどんどんやばんばんではないだろうかと思ったものの、リラはかっちゃんの様子を見て口を閉じる。かっちゃんは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねている。鳴子を持っているつもりなのか、手を軽く握り、地引網を引っ張るようなしぐさをして見せた。
「かっちゃん、よさこいが見たいの?」
「うん! 踊る!」
リラと同じくらいのお姉さんがぴょんぴょんする、ということは、かっちゃんは学生チームの踊りを見たいのだろう。
食器を洗っていた飛歌流がカウンターから顔を出す。
「お祭りは再来週からでしたよね。公園に現れたのは、もしかしたらパレードの列を待っていたのかもしれないですね」
かっちゃんは飛び跳ねる。
「見る! 見たらかっちゃん嬉しい!」
「それじゃあ、かっちゃんをお見送りするのは再来週ですね」
「オーナーと俊哉君に知らせて来ますね。木山さん、お皿頼んでもいいですか?」
「分かりました」
エプロンを外した飛歌流が奥のドアを開ける。揺れる長髪を見てかっちゃんが喜んだ。しかし、今度は飛び付くようなことはしない。すぐにポスターへと向き直り、イラストの踊り子に羨望の眼差しを向けたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!