316人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
弐 陰陽師はカフェにいる
「見て、あなた。綺麗ね」
「サダさんの方が綺麗だよ」
「もうっ、そういうの求めてないわよ!」
「写真でも撮ろうか」
○
老婆――サダはお手玉をして遊ぶ真白のことを眺めていた。部屋に入って来たリラと俊哉に気が付き顔を上げる。
「サダさん、お話窺ってもいいですか」
リラは真白の隣に腰を下ろす。すると、お手玉を握りしめた真白が膝の上にちょこんと座る。ぽんっと音を立てるようにして、猫耳の女の子は真っ白な子猫へと姿を変えた。二股に分かれた尻尾を揺らしながら、お手玉をはぐはぐと齧っている。
妖怪が姿を変える様を初めて見たリラは驚いて息を呑んだ。恐る恐る真白の喉元に手を伸ばして撫でてやると、嬉しそうな鳴き声が漏れ聞こえてきた。真白を撫でながらサダに向き直る。
「サダさん、旦那さんと見たのはどんな花だったのか、ほんの少しだけでもいいんです、教えていただけませんか」
「そうね……。かわいらしい花だったよ……」
かわいらしい花。何をかわいいと感じるかには個人差がある。それだけでは特定することはできない。
「そうだ。あの、苗字って教えていただけますか? もしかしたら、お家が分かるかも。そうすれば旦那さんにお話を聞くこともできるかもしれません」
最初からそうすればよかったのだ、とリラは自分で自分を褒めた。しかし、サダは首を横に振ってしまった。
「ごめんねえ、分からないねえ」
「えっ、何で。お名前ですよ?」
「待ってリラさん」
立ったまま話を聞いていた俊哉が身を乗り出した。
「おばあちゃん、貴女が亡くなったのはいつですか。もう、何年も前なんじゃないですか」
「ごめんなさいねえ。ごめんなさいねえ。もう歳だから分からないのよお。ごめんなさいねえ」
俊哉の口調は特別強かったわけではない。しかし、サダは弱々しい声を上げて泣き出してしまった。
「ちょっと鶫さん!」
「俺絶対悪くないよ!」
「ごめんなさいサダさん。ま、また後でお話聞きますね」
逃げるようにしてリラと俊哉は店の方へ戻った。リラの腕にはお手玉を咥える真白が抱かれている。
神妙な面持ちの二人を見て、優雅に一人コーヒーを啜っていた飛歌流がねぎらいの言葉をかける。
「お疲れ様、うまくいかなかったみたいですね。そういう時もありますよ」
「もー! あのばあさん何年前から浮遊霊やってるんだよ。記憶曖昧すぎるだろー」
「それは俊哉君にとってブーメランなのでは」
「俺のことはいいんだよ俺のことは」
席に座った二人の前にコーヒーカップが置かれる。
「記憶が曖昧って、おばあちゃんだからほら、認知症とかそういうのじゃないんですか」
「リラさんは幼稚園の時のことはっきり覚えてる?」
「ちょっと危ういですね」
覚えているのはどういうことだろう。遠い昔に思いを馳せると、リラの頭の中にはある物語が浮かんで来た。先程真白に話そうとしていたものだ。小さい頃からずっとその物語が頭を離れない。
狩衣が着崩れるのもお構いなしに姿勢を崩した俊哉がコーヒーを啜る。
「昔のことは忘れてしまう。生きていても死んでいても同じだ。時間が流れていけば古い記憶は欠落していく。例え死ぬ時に認知症とかそういうのじゃなくてもね、幽霊となってこの世を彷徨っていれば次第に記憶が削れ、曖昧になっていく」
「そういうものなんですね」
死ねばもうそれ以上歳を取ることはないのだから、時間が止まってしまうのだと思っていた。リラはカップの中で揺れる黒い液体を見つめながら、新しい事実を頭の中にインプットする。体の時間が止まっても、心は動き続ける。
俊哉は深い溜息をついた。
「苗字すら忘れてしまうなんて、一体彼女はいつ亡くなったんだ……。それでも覚えている花なのだから、とても大切な思い出だったはずだ。ちゃんと、見せてあげないと」
「あの、今更だし素朴な疑問なんですけど、どうしてこういう仕事が必要なんですか」
「……ここに来るのは迷える浮遊霊だ。そもそも、この世に未練があるから幽霊になるのだけれど、想いを果たせないままこの世に留まり続けると、生きている人に害をなすようになる人がいるんだよ。所謂悪霊ってやつだね。そうなる前に、送り出すことが必要なんだ。でも、それだけじゃあただの霊能力者と変わらないから、ここでは最期の一杯を提供するんだ」
説明をする俊哉のことを飛歌流は心配そうに見ていた。視線に気が付いた俊哉と目が合うと、飛歌流はわざとらしい微笑を浮かべて誤魔化した。
店内では雅楽のCDが鳴り続けている。花の名所を調べていたリラはスマートホンに向けていた手を止め、俊哉と飛歌流を振り向いた。
「あの、もしかしておじいさん……旦那さんもすでに亡くなっているとか……ありませんかね」
「んー、無きにしも非ず、だね。……おばあさんの話しぶりからすると彼女の方が先に亡くなっているようだから、旦那さんの死を知らない可能性もある」
ぱちんっ、と俊哉が指を鳴らす。
「旦那を呼び出して訊けばいいのか! まだ生きていたら無理だけれど、賭けてみて損はない! 真白、オーナーを呼んできて」
リラの腕から飛び出した真白が奥のドアを開ける。
ほどなくして、真白を抱いた男が姿を現した。長めの前髪がやや目にかかっている和装の男だ。年の頃は三十代前半くらいだろうか。
リラは席を立って男に一礼する。
「は、初めまして。木山リラです」
「ああ、君が。よろしくね。私は火野坂恭介。アーカーシャのオーナーだ」
オーナーは店に顔を出すことが滅多にない。俊哉と飛歌流も彼と店で顔を合わせるのは数日振りだった。
恭介はにこやかにリラに対して手を伸ばす。握手をすると、彼は改めて「よろしくね」と繰り返した。
「真白に聞いたけれど、お客さんが来ているようだね。それで? 私の力が必要なのかい、俊哉」
「ええ、はい……。今回のお客様は亡くなられてから大分時間が経っているらしくお名前が分からないので、遺族の方を探すことができないのです。もしかしたら旦那さんも亡くなっているかもしれないと思い、降霊を行おうかと」
俊哉の話を聞いて、恭介は不満たっぷりの「ええー」という声を出した。
「嫌だよ降霊は。それは霊媒師の仕事だろう。霊媒師と連絡取るの面倒臭いもの」
「文句言わないでくださいオーナー」
「私はあくまで陰陽師の末裔だからそういう詳しいことはできないって何回も言っているだろう」
「ですから、霊媒師にお願いして……」
「やだやだやだやだ。アイツら偉そうだから嫌だよ。もう霊媒師とは仕事なんてしないって決めたんだ」
「子供みたいなこと言わないでください」
恭介と俊哉のやり取りにリラが面食らっていると、飛歌流が追加のコーヒーをカップに入れてくれた。
「いつもあんな感じですよ。オーナーは陰陽師なので、占いが仕事なのです。悪い妖怪と戦ったり、悪霊を浄化したりするのは専門外。ですから、事が起こる前に送り出すのですよ」
それって霊媒師の仕事減らしているのでは、と思ったものの、リラは寸でのところで出かかった言葉を飲み込んだ。恭介の様子を見るに、霊媒師に変なライバル意識があるようだ。悪霊を増やさないのはいいことなので、彼のやっていることが責められることはないのだろう。
恭介は暖簾に腕押し状態であり、するりするりと俊哉の言葉を受け流している。一向にやる気を示さない恭介に対し、徐々に苛立ってきたのか俊哉の口調が荒くなってきた。まるで美しい歌でも詠みあげているかのように、罵詈雑言が紡ぎあげられていく。
子供の教育に良くないという判断をした飛歌流が真白の耳を塞いだところで、ようやく恭介は動きを見せた。懐から紙切れを取り出す。何やら難解な文字のような絵のようなものが書いてあった。護符の類のものだろう。
「分かった分かった。それじゃあ、旦那さんの居場所を占ってみようか」
「何かしらの手段があるのなら最初からやってください」
「いやあ、俊哉を見ているのが面白くてね」
「はぁ?」
「……何でもないよー」
優美な貴族風の外見から放たれたとは思えないほどどすの効いた声だった。恭介のことを睨みつけていた俊哉だったが、リラの視線に気が付いた途端力の抜けた笑顔になる。
恭介はカウンターに護符を数枚並べると、手を翳し目を閉じた。小さく口元が動いているが、リラにはその言葉は聞き取れない。俊哉も飛歌流も真白も黙っているので、リラもおとなしく様子を窺った。
店内に微かな風が吹き、恭介の長めの髪を小さく揺らす。
「見えた」
ゆっくりと恭介は目を開けた。茶色いはずの瞳に微かに赤みが差していたように見えたが、リラは黙っていた。もう一度確認するとただの茶色だったからだ。
「サダさんの旦那さんはおそらくまだご存命だね。札幌に住んでいるみたいだけれど、行ってみる?」
そう言ってリラを見る。
「でも、名前も声も顔も分からない人、探せません」
恭介は薄く笑うと、護符を一枚リラに差し出した。
「きっとこれが君を導いてくれる。リラちゃん、アーカーシャで仕事をできるのか、見させてもらうからね。いわば入社試験だ」
「えっ」
「俊哉から話は聞いている。人ではない者、生きていない者を見てしまう目を持っていることで生活に支障が出てしまうこと、そのせいで普通の会社に就職できるか非常に心配だということ。だからここで働きたいんだよね。事情は分かっているけれど、無条件で雇うことはできない。私達だって商売だから。サダおばあさんを無事に送り出すことができたら、正式に採用しよう」
俊哉をサポートに付けるから、と恭介は言う。いきなり指名された俊哉は少し不服そうだったが、一瞬でころりと表情を変えて「お任せ下さい」と答えた。
「リラちゃん、頑張って。何かあったら俊哉にでも私にでも言ってくれ。意地悪はしないから」
「……分かりました。お試し期間は終了ですね」
「そういうことだね」
「行きましょう、鶫さん」
リラと俊哉は連れ立って店を出て行った。リロンリロンというベルの音がまだ残る店内で、恭介はカウンターに突っ伏しつつ飛歌流にちらりと視線を向ける。
「飛歌流はどう思う、あの子」
「オーナーが外に出たがらないので、非常に役に立つと思います」
「まるで私が役立たずのような言い方だね」
「本当のことでしょう?」
反論できない恭介は膝に乗る真白を撫でる。
「リラ! いい子! つぐみんもリラのこと気に入ってる! わたしもリラ好き!」
「そうかそうか真白は今日も元気でかわいいねえ。……飛歌流、俊哉のことはどう思う?」
問われて、飛歌流はコーヒーを注いでいた手を止める。軽く顔を上げた恭介が目を細めた。
「何か感じているのかい、アッカムイ様は」
「……僕はただのモモンガですよ。……そうですね、俊哉君は木山さんが訪れるようになってから少し様子がおかしいですね」
こぼれんばかりにコーヒーで満たされたカップが恭介の前に置かれる。体を起こし、恭介はカップの中にスティックシュガーを五本分どばどばと注ぎ込んだ。
「そんなに入れると体に悪いですよ」
「からかうなよ、分かってるくせに」
占術を使うとごっそりと体力が持って行かれるため、こうでもしなければ体がもたないのだ。溶け切らずに口の中に残る砂糖を追加のコーヒーで流し込み、恭介は溜息をついた。
「……甘い」
最初のコメントを投稿しよう!