壱 神輿渡御

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壱 神輿渡御

 六月十六日。北海道総鎮守、北海道神宮の境内には暖かな風が吹き木漏れ日が落ちていた。そして賑やかな声。普段はあまり神社を訪れないという人々も多く訪れている。人々は屋台を眺め、飲食物を購入して各々楽しんでいるようだった。  札幌まつりとも呼ばれる北海道神宮例大祭。その最終日である。  屋台や参拝客を横目に、迷うことなく本殿の方へ歩いて行く人影があった。長い茶髪を一つに束ねた若い男――飛歌流だ。アーカーシャのことを俊哉とリラに任せて半休を過ごす飛歌流だが、これは休みと言っていいのだろうかと少し疑問に思ってもいた。なぜなら、彼にとって神社を訪れることは仕事の一巻のようなものだからだ。  本殿のすぐ近くまで来ると一旦物陰へ移動して髪を括っていた紐を解く。アイヌ文様が織り込まれた紐が指先で揺れ、髪がさらさらと流れ出す。それを合図に、纏っていたカジュアルなジャケットが豪奢なアットゥシへと姿を変えた。大振りな耳飾りや首飾りなどもどこからともなく出現してその身を飾って行く。 「さて、と……」  髪を縛り直すために腕を挙げる。通常よりも大きな袖が飛膜のように広がった。  祭りを見物しに街へやって来た人を逃すまいと、近隣の飲食店は皆やる気に満ちていた。アーカーシャもそんな店の一つである。平時よりも生きた人間の客の入りが多い。札幌中心部でイベントが開かれた際には、こうしてふらりと立ち寄る客を手に入れることが大切である。  ラジカセからはジャズが流れている。リラはお湯を沸かしながら店内を見回した。客、客、客。よさこいの期間中も多かったが、それよりも多い。  できたてのボロネーゼが目の前に置かれる。 「六番テーブルさんのパスタできたよ」  それだけ告げると俊哉は厨房に引っ込んだ。テーブル席からは厨房がよく見えないため、俊哉が料理していても不審に思われることはない。飛歌流が抜けている今は俊哉が料理を作らなければならないのだ。狩衣の袖は括ってたすき掛けの状態だ。  リラは料理をテーブルへ運び、カウンターに戻る。すると俊哉が厨房から出てきた。 「珈琲は?」 「今はコーヒーの注文はありません」 「分かった」 「すみません、私力になれなくて……。お店に出すレベルの料理できないし……」  俊哉は首を横に振る。 「リラさんはホール係なんだからその仕事をしてくれれば十分だよ。……早く飛歌流さん帰ってこないかな」 「ひかるん神社行ってるんでしょ」  カウンター席に座ってジュースを飲んでいた真白が言う。ワンポイントにリボンが付いたピンク色のボーダー柄ワンピースを着ており、朝リラが出勤した際には「恭介が買ってくれたんだぞ」と自慢していた。普段ボーイッシュな格好をしている分、突然かわいらしい格好を見せられるとより一層かわいらしく見える。見せびらかして歩きたいようだが、猫耳の生えた姿は普通の客には見えていない。人間に化ければ客にも見せられるのだが、そうすると俊哉と自由に会話をすることができなくなってしまう。  厨房へ戻ろうとしていた俊哉が踏み止まり「そうだよ」と返事をした。たすきをかけ直しながらリラの方を向く。 「毎年神輿渡御の日に午前休取って神社に行ってるんだ。神社が好きなんだなと思ってたけど、もしかしたら神様だから何か用事があって行ってるのかもって今なら思う」 「飛歌流さん、本当に神様なんですよね。私、神様って初めて見ました」  何もないところを見て話している。そう思われないよう、リラは厨房の奥の方を見ながら話していた。奥には調理スタッフがいるはずだ、と客は思っているのだから目の前の俊哉ではなく厨房を見ていた方がよいのだ。  自分は神の眷属である。飛歌流の告白に驚いたのはリラと俊哉と真白で、恭介は彼の正体を知っていたようだった。なぜ神が妖怪と名乗っていて、陰陽師と共にいるのか、そのことについては話すつもりはないらしく飛歌流も恭介もそれ以上のことは言わなかった。 「御神輿か……。立派ですよね、あれ」  平安時代を思わせる装束を纏った人々が列になって、神輿を引き連れて札幌の街中を練り歩く。札幌まつりの見せ場である。三年前、初めて見た時にリラは心打たれた。釧路でも祭りの神輿はもちろん見たことがあった。しかし、札幌の神輿もいいなと思ったのだ。テレビで見る日本各地の祭りで登場する神輿や山車はどれも見ていて飽きないとリラは思っていた。地域に暮らす人々が何年も受け継いできたものの美しさはとてもいい。  今日は見に行けないけれど。と残念そうに言うリラに対し、俊哉はやや強張った表情を浮かべていた。視線は下を向き、堪えるように口が引き結ばれる。手が少し震えているようにも見えた。 「鶫さ……」 「すみませーん、注文いいですかー」 「あ……。はーいっ!」  リラはカウンターを出て客の元へ向かう。注文をメモしてカウンターを振り返ると、俊哉はもう厨房へ引っ込んでしまっていた。心配そうな顔をした真白と目が合う。 「つぐみんはあまりおみこし好きじゃないみたいなんだ。……わたしは好きだぞ、おみこし。わっしょい! ってやるんだぞ!」 「御神輿が好きじゃない? 賑やかなのが嫌いなわけじゃないだろうし、どうしてだろう……」 「わかんなーい! でもね、他のおみこしは平気だぞ。札幌まつりのおみこしが怖いの」 「……怖い?」  きらびやかな行列。それを見物する人々。それのどこに恐怖を覚えるのだろう。  リラは厨房へ注文を告げる。返事と共に調理器具が触れ合う音が聞こえてきた。  ランチタイムの営業を終えると休憩時間に入る。賄いのナポリタンを前に俊哉は頭を抱えていた。 「お疲れ様です俊哉君」 「疲れた……」 「後は僕がやりますから」  帰って来た飛歌流が俊哉を撫でる。 「ひかるん、髪に葉っぱ付いてる」 「えっ、どこ? どこですか」 「ここ……」  手を伸ばした真白がバランスを崩し、飛歌流の背に飛びかかる形になってしまう。そのまま押されて、俊哉に倒れ込む。 「え、飛歌流さん、待っ……」  カウンター席のイスごと三人が倒れる。カウンター内で自分の分のナポリタンを盛り付けていたリラが慌てて向こうを覗き込む。「ごはんー、ごはんー」と言いながらドアを開けて店に出てきた恭介が開けたドアを閉める。それらの動作が数秒の間にほぼ同時に行われた。  リラはカウンターから出てくると真白を引っ張り起こした。 「真白ちゃん大丈夫?」 「びっくりした!」 「飛歌流さんと鶫さんは?」 「僕は平気ですが……」 「んああ!」  飛歌流の下敷きになったまま、俊哉は頭を押さえた。前方を見て悲鳴を上げる。開店前にリラと真白が掃除をして磨き上げられたフローリングに烏帽子が転がっている。 「ひっ……! 駄目だって駄目だってば! 飛歌流さん避けて! 避けろ! 烏帽子!」  起き上がりかけたところをそのまま振り払って吹き飛ばし、俊哉は烏帽子を拾い上げて頭に載せた。そこでようやく恭介が奥から出てくる。陰陽師は様子を探るように顔だけ出して、床で震えている式の背を見つめている。  真白を抱えて引き摺るようにしたままリラは俊哉の前に回り込んだ。「大丈夫ですか?」と訊こうとしたものの躊躇う。なぜなら、俊哉はまるで出歯亀に遭った乙女のように耳まで赤くして顔を覆っているからである。 「み、見るな! 恥ずかしいだろ!」 「鶫さん……?」 「烏帽子落ちるとかまじかよ……」  洋服を着ている時でも俊哉は帽子を手放さない。その徹底ぶりはすさまじく、リラは俊哉が何も被っていない姿を見たことがなかった。 「俊哉、いつにも増して動揺してるね。そんなにリラちゃんに見られたくなかった?」  ドアの陰から恭介が言う。 「烏帽子が落ちるのはめちゃくちゃ恥ずべきことなんです!」 「前に落とした時にも慌ててたから知ってるけれど、何で?」 「何でって、それは……。それは……えっと……」  顔の赤みが徐々に引いていく。そして、今度は青ざめ始めた。「何で? 何で?」と呟きながら、手が顔から体へ移っていく。  ラジカセから流れる雅楽が静かに店内を撫でて回る。 「俊哉。鶫俊哉は、君の名前?」 「俺……私……は…。あぁ……っ!」 「どこまで忘れてしまったんだい、俊哉」 「……っあ。わた、私……俺……麿? あ、え……え?」  ゆらりと立ち上がった俊哉はよろめきながら奥へ歩き出した。恭介の横をすぎてドアの向こうに消えてしまう。  真白を抱いたまま、リラは恭介を見る。 「どういうこと、ですか……。鶫さん、本当の名前じゃないんですか」 「人の記憶は長い時間保つことは難しい。死んで体の時間が止まってもそれは変わらない。サダさんの件で分かってるよね」 「はい」  カウンター席に座り、恭介はナポリタンを食べ始めた。それを合図に一同も席に着いて食べ始める。 「俊哉もそうだ。生前の記憶はかなり欠落しているんだよ。『鶫俊哉』という名前は私が与えたこの店の店長としての名前であって、本名ではない」  ウインナーがフォークから落ちた。 「出会った時には彼から名乗ってくれたし、この世に留まっている理由も教えてくれたんだけどね」  幼く、亡くなってからあまり時間の経っていないかっちゃんは自分のことも美紀のことも把握していた。しかし、高齢であることに加えて亡くなってからかなり時間の経っていたサダは夫との大切な思い出の場所を忘れていた。  俊哉の外見年齢はまだ二十代くらいである。しかし、幽霊として過ごした時間は享年を遥かに越える。記憶力が若いままでも長すぎる時間には耐えられない。 「鶫さんって生きていたら何歳なんですか。百歳、とか?」  真白の口の回りに付いたケチャップを拭いてやりながらリラは訊ねた。「いくつー?」と真白も言う。  恭介はフォークでピーマンをつついている。そして頬杖を着き、溜息を吐いた。「もう自覚もないのかもな」と呟く。 「見たまんまだよ、俊哉は」 「見たまんま」 「彼は千年前の京都を生きた平安貴族だ」  曲が一巡して雅楽のCDが止まった。
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