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「笑ってください」
私が彼の部屋に入っても彼は私を見ることなく、陶磁器の様に蒼白い顔で虚空を見つめたままだった。重苦しい空気に耐え切れず、私は声を発した。掛けるべき言葉は他にあったはずだが、私の口元は無様に歪み、気味の悪い笑みを浮かべながら彼に同様の行為を強いた。
「笑って……」
私は彼の笑顔をただの一度しか見たことがない。初めて逢った時から彼は口癖のように“人生に疲れた”と言い、声無き声で私に助けを求めていた。ある夜、私が彼の唇を塞ぐと、彼は驚いた顔を見せたが、全てを諦めたように眼を伏せ、私に身を委ねた。
少しの戯れの後、彼の口元がわずかにほころび、私は彼の信頼を得ることができたのだ。しかし幸せは長くは続かなかった。互いの環境の違いが災いし私たちは疎遠になってしまった。こうして彼の顔を間近で見たのは、実に三十年ぶりのことだった。
「笑ってください……」
背に隠した贈り物が悲しく揺れる。
「貴方に似合うと思って……柄でもないですが買ってきました」
私が背に隠していたマリーゴールドの花束を彼の前へ差し出すと、彼の鼻先がひくりと動いたように見える。横たわったまま動かない彼の顔の近くにオレンジ色の花束を置くと、彼はゆっくりと片腕を持ち上げ、花束を優しく抱え、私を見た。
彼が言葉を発せないほど状態がひどくなっていると、私はこのとき知った。私が愛した人がこの手からすり抜けていく。死の息吹を感じた瞬間、いくつもの機械音が病室に響き渡り、医師や看護師が現れる。退出するように言い渡された私の手にはマリーゴールドの花束。
「はは……叶わないから夢でした」
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