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そう言って私と女性の間に割って入ったのは、鼠色のスーツを着た中年サラリーマンだった。疎らな頭髪とポッコリ出たお腹が目に付く。
「そう運転手さんを責めてあげなさんな。この状況を見たところ、どうも普通じゃないでしょうに」
横やりを入れられた彼女は中年男性を蔑んだような目で睨んでから、「確かに普通ではないけれど……」と、辺りに目を走らせてから言葉を続ける。
「でも私たちはバスに乗っていたのよ。そのバスの責任者はこの運転手じゃない。責任者には説明責任があるはずよ」
そんなことを言われても困る。逆にこちらが誰かにこの状況を説明してもらいたいくらいだ。そんな私の気持ちを代弁するかのように中年男性が口を開く。
「そりゃバスに乗ったままどこか変なところへ連れて行かれたのなら、運転手さんに説明してもらわなきゃならないよ。でもね、」
そこで言葉を切ると、彼はぐるりとその空間を見渡しながら、
「よく御覧なさい。バスがないんですよ」
恥ずかしながらその言葉で初めて気がついた。彼が言う通り、私が運転していたバスはどこにも見当たらない。スーツ姿の女性もそこに頭が回らなかったようで、戸惑いの表情で視線を彷徨わせた。
その様子をしり目に中年男性が言葉を続ける。
「バスに乗ったまま我々が目覚めたのなら、運転手さんに尋ねるのが正しい。でも肝心のバスがない。まさか運転手さんが一人で、眠っている我々全員を降ろして、その上バスをどこかに隠した……なんてことはないでしょう?」
彼がちらりとこちらを見た。慌てて何度も肯いて見せると、スーツ姿の彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「それじゃ、今のこの状況は何?」
「さあねぇ」と中年男性が首をひねる。
すると、別の誰かの声が聞こえてきた。
「何かの犯罪に巻き込まれたんじゃねえの?」
振り返ると、そこには20歳そこそこと言った感じの若者がいた。右手と右足にギプスをしている。そのせいか、彼は足を投げ出したまま地べたに座り込んでいた。どうやら私たちの会話は、彼の耳にも届いていたようだ。
「犯罪?」
スーツ姿の女性がその言葉を繰り返したことで、場の空気が張り詰めた。どこかのテロリストが一般市民を誘拐しただの、変質者が他人を監禁していただのと言ったニュースが私の脳裏で浮かんでは消える。恐らく他の人達も同じようなことを考えているに違いない。
「あの、みなさん」
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