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「はいはい」
懐かしいあの声が聞こえる。ああ、もう幻聴まで聞こえる様になってしまった。
「いやですわ、あなた」
ん?俺は今声を出していただろうか?
「もう声を出さなくても聞こえるんですよ」
――妻の待ち望んでいた懐かしい声が確かにしている。声の方を向くと妻がいた。しかも向こうが透き通って見える。
「ああ、ばあさん、ばあさん」
今度は俊雄は喜びの涙を浮かべる。
もう幽霊でもなんでも良かった。こうしてもう1度妻に会えたのだから。
「はい、何ですかあなた?」
妻は生前と全く同じ口調で話している。
「俺を……俺を迎えに来たのか?」
ゴホッと彼にしては話し過ぎたので、咳き込みながら妻に尋ねる。もうこのまま死んでも良かった。
「そうなりますね、私としてはまだこっちに来て欲しくなかったんですが」
ほんの少しだけ妻は困った様に笑う。
「良いんだよ、もう十分生きた」
「あなたはずっと私を呼んでいましたもんね。こっちにまで聞こえていましたよ」
「おお、そうか……すまなんだ」
妻は今度は穏やかないつも見せていた笑顔になる。
「――私は気付いていましたよ。あなたが私のことをずっと大切にしていたことを。そうじゃないとこうして迎えには来ません」
「そうかそうか」
ゆっくり俊雄は笑って目を閉じる。
「だから最期に私のお願いを聞いて下さいな」
「なんだい?」
もう目は開きそうになかった。だからこそ俊雄は素直に尋ねることが出来た。
「ばあさんでなく、名前を呼んで下さいな」
「名前……?」
「だってあなたったらずっとお前だの、母さんだの、ばあさんだの。ちぃっとも名前を呼んで下さらないんだもの。最期だから良いじゃないですの」
そういえばそうだった。今更ながら申し訳なさでいっぱいになった。
「すまなんだ、――ハツ江」
「ありがとうございます。俊雄さん」
はしゃいだ少女の様な声が聞こえた。
――ああ!名前を呼ばれると言うのはなんと素敵なことだろう!
俊雄は満足な笑みを浮かべて死んでいったのだった。
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