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 仕事から帰り、アパートの部屋のドアを開けると、ユウが畳で死体のように横たわり寝息を立てていた。私はユウのことをほとんど何も知らない。彼の苗字も、何の仕事をしているのかも。  ふた月ほど前の深夜、錆びたベランダの柵に掴まり目の前を流れる川をぼんやりと眺めていた時、辺りに大木も何も存在しない土手に、彼はまっすぐと立っていた。まっすぐと立って、こちらを見ていた。ふいに、毎朝利用する駅に不審者の貼り紙があったことを思い出した。  しばらくお互いに無言だった。ただひすたらにお互いを見つめ合い、そして思った。きっとこの人は、私と同じだと。私と同じ層にいる人間だろうと。気付けば私は手を振っていた。見ず知らずの男を部屋にあげることに、不思議と恐怖心はなかった。なぜかは分からないが、何かしらの理由が必要なのであれば、恐らくそれは虚ろな目で私を見つめたユウだったから。彼が名乗ったユウが本名なのか分からなかったが、私はそんなくだらないことはどうでもいいような気がした。  いつ食べても憂鬱な味のするコンビニ弁当の入ったビニル袋を卓袱台に置き、ユウの腕を掴んだ。その手首にあるためらい傷をそっと撫でると、いくつもの失敗たちを大きな一つとして縁をなぞり、一昨日、道端で見た野良の母犬が子犬にそうしていたように、甘く口に咥えてみた。すると、突然に性欲なのかよく分からない衝動に駆られ、私は無性にユウに触れたくなった。ユウを起こさないように慎重に馬乗りになると、規則的だった寝息が途切れた。起こしてしまったかと思ったが、その目は変わらず固く閉じられたままだった。  ユウの上で眠るように、ゆっくりと体を預けていく。私とユウの間に、だんだんと空洞がなくなっていく。そのことに私は酷く安心し、今夜はこのまま眠りにつけそうだと思った。  薄い壁の向こうからは、今日も若い女の喘ぎが聞こえる。それは、この薄汚れたアパートには似つかわしくない可愛らしい鳴き声だが、実際のことなど抱いている男にも誰にもわからないのだと思った。  目を瞑り、眠りから覚めたら、ユウになっていたらいい。私たちに空洞がない今のうちに、不快な朝日が昇るその前に、私の成分がすべて溶け出してしまって、ユウとひとつになればいい。  朝、瞼を開いた後の世界が、私に優しかったことなど一度もないのだから。
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