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鏡の前に立ち、Tシャツをおそるおそる捲ると缶ビールをぶつけられた部分がどす黒く変色していた。触ると痛むが、体を大きく動かさなければ強い痛みはなかった。肋骨にひびが入ったかと思ったが、何とか大丈夫だったようだ――思わずため息が漏れた。
――今日はこの程度で済んでよかった・・・・・・
思わず苦笑いを浮かべた。どこの二十歳の女がこんなことで幸せを感じるのか。この異常な家庭に慣れてしまった自分に対して笑いがこみ上げてきた。
鏡に映った自分――若さを感じさせないカサついた肌、取れないクマ、清潔感のないロングヘア・・・・・・およそ青春と呼べる体験が一切なかった自分が代わりに得たものは底無しの疲労感だけであった。
改めて鏡の中の自分を見つめる――陰鬱な表情の中の黒く暗い瞳と目が合った。
玄関を開ける音と共に元気よく「ただいま」の挨拶の声がした。それと同時に急いで二階に駆け上がってくる音が聞こえ、そして私の部屋の扉が勢いよく開かれた。
「お姉ちゃん、ただいま!」
「おかえり、沙耶」
「どうしたの? 何かあったの?」
鏡の前で呆然と立ち尽くす私を見て違和感を持った沙耶がすぐに問いかけてきた。
「いや、何もないよ」
「そう・・・・・・なんか暗い顔してたから」
「本当に何もないのよ、それより学校の方はどうなの?」
「全然問題ないよ。この前の学年末テストも結構簡単なかんじだったし」
「そう・・・・・それならいいけど。でもちゃんと予習・復習は欠かさずやらなきゃだめだよ」
「大丈夫よ。勉強の時間だけならたっぷりあるんだから」
沙耶は絶対に私より早く家に帰ることはない。忙しくて帰れないのではなく帰らないのだ。中学校で文芸部という名の帰宅部に所属し、学校が閉まるぎりぎりの時間まで図書館で一人で勉強している。そして私が家に着く頃を見計らって下校する。なぜそのようなことをするのかといえば答えは単純で、私がいない時に友香達と一緒にいたくないからである。
「じゃ、これから夕飯を作るね」
友香が私達姉妹の食事を作ることはない。今夜も和也があの調子では自分の分だけ出前をとるのだろう。
「いいよ、お姉ちゃん、疲れてるでしょ。私作るから」
「じゃあ、一緒に作ろうか」
今夜は友香のいる一階に降りることは躊躇われたが、沙耶の存在が僅かに私を勇気付けた。元気よく一階に降りていく制服姿の沙耶の背中を見ながら私は階段へ向かった。
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