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第2章 少年時代
北九州市にいたのは9歳まで。父の仕事の転勤で群馬県に引っ越すことになるが、それまでの記憶といえば、幼稚園の頃遠足に行ったり、小学校に上がってからはドッジボールを覚えたりとか、それくらいである。あまりにも群馬に引っ越してからの生活が強烈極まりなかったため、平穏に育った、小学3年生までの北九州での生活は正直あまり記憶にない。
群馬県のほぼ中央にある市内に引っ越してきた私たち一家は、実に畑ばかりのだだっ広い土地に半ば呆れ半ば幻滅した。
まず、バスがあまり通っていない。通っているにしても限られた区間を1時間に1本の割合である。どこへ行くにも自転車。おまけに上州の空っ風。向かい風の時は自転車が前に進まなかった。
畑の真ん中の1本道の先に小さなスーパーがあった。昭和56年当時はコンビニエンスストアなどなかったし、コンビニなんて名称も知らなかった。確かに、東京や横浜みたいな大都会にはコンビニがあったかも知れない。しかしここは、『 だべっ!』という群馬弁の飛び交う畑のど真ん中。同じ日本国内でも、都会と田舎とではえらい違いがあったのである。
因みにコンビニエンスストアが私たちの住む田舎町に進出してきたのが昭和58年頃。初めてその外観を見た私は、心がときめいたことを今でもはっきりと思い出すことが出来る。
小学校は、築40年もの歴史のある今にも崩壊しそうな校舎で、
( 便所に落ちたら死んでしまうのではないか… )
と、思わせるほどの恐怖屋敷であった。
※ 因みに当時の田舎のトイレ事情は、大半の家庭が現在のような水洗ではなく、汲み取り式の『ドッスン便所』であった。この便所に物を落としたら最後。最悪な状況になるのは必至である。
その恐怖屋敷の3年生に転入学した私は、言葉の語尾に
「ちゃ」
をつける、北九州独特の方言も手伝ってか早速いじめのターゲットにされた。
家庭では酒乱の父に木刀で叩かれ、学校では同級生から殴られたり蹴飛ばされる日々が続いた。
( 死んだ方が楽になれるのではないか… )
そう、たびたび思うこともあった。
家出を繰り返すようになり、スーパーのパンを万引きしては空腹を満たした。軒下でダンボールに身をくるみ寒さを凌ぐ毎日。スーパーの出店から漂う餃子の匂いに唾を飲み込んだ。
いつの日からか、母親の財布からこっそり金を抜き出してはゲームセンターに入り浸るようになっていった。
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