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横浜港町にあるバー『J moon』。
その日、閉店間際に駆け込んできた客は、従業員も良く知る、関係の深い男だった。
「あら、先生、いらしてくれたの?」
まだ三〇歳そこそこであるママ蓮華が、一際嬉しそうに出迎えた。
「ああ、赤レンガ倉庫でライヴやってきたとこなんだ。せっかく近くまで来たからさ。それにしても、蓮ちゃん、仕事の時はいい女だねぇ。いつも道を誤りそうになっちゃうよ」
「またまた~! 先生ったら、いつもお上手なんだから。お世辞言っても、代金はサービスしませんよ」
ラスト・オーダーの時間は過ぎていたが、その四〇代ほどの男━━橘のボトルを、チーフ・バーテンダーの優が、ロックグラスと氷とともに差し出す。
橘は、待ち切れなさそうにグラスの氷を溶かしながら、ウイスキーを一口飲んだ。
「先生、おはようございます」
「おう、奏汰! 実は、今日は、お前に話があって来たんだ」
橘は、奏汰を自分の近くへ招いた。
橘が講師を努める音楽学校では、ミュージシャン志望の学生も多く、授業の一環として、学内でコンサートを開催することが必修となっている。
橘が通うようになったのも一年前からであり、今年前期のコンサートでは、演奏よりも、セッティングやリハーサル、本番のトラブルに時間を取られてしまったのだという。
それも含めて学ぶことになっているが、楽器を生演奏する彼らは、裏方の機械に疎いところもあった。
「クラスでコンサートをやるんだが、何人かはかなり上手いんだが、ベースが人数少ない上に下手なヤツばっかでさ。……っていうのも、本来ベース専門じゃないヤツが回されて仕方なくやってるもんだから、そいつらも可哀想なんだけどさ。だから、奏汰、俺の助手ってことで、ベース手伝ってやってくれないか?」
奏汰は笑顔になった。
「やります! 是非!」
「サンキュー! 助かるぜ! それと、その前に、授業で音響の講義を一回だけでいいから頼みたいんだが、どうだ?」
「えっ? 俺が授業するんですか?」
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