Ⅰ.(1)ジャズの月(*)

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 休憩時間には、仮眠も取れるパイプベッドと、ソファのある小さな殺風景な部屋で休める。小さめの冷蔵庫とカクテルの道具、カクテルの本などが並び、身だしなみをチェック出来る姿見もあった。  悪くない職場だと、奏汰は思っていた。  仕事が終わると、近所に借りたアパートへ帰り、殺風景なワンルームで、スタンドに置いたベースを取り、アンプを通さず弦を弾く。  そんな日々だった。  数日が経ち、従業員が帰った後、奏汰の他にチーフ・バーテンダーの桜木優(さくらぎ ゆう)も残る。  閉店後に、奏汰は、優から簡単なカクテルを作る手ほどきを受けていた。  店にある酒やカクテルを作る材料は、練習や研究のために、使って良いことになっている。  優は、一八〇センチを越える背丈で、細身であり、手の指も長く、男にしては綺麗な手が印象的だった。  ベースを弾く奏汰は、人の手にも自然と目が行く。バーテンダーは、爪の手入れも行き届いていて、ハンドケアもしているのだなぁと、密かに感心する。  仕事中はアップにしていた髪をほどいた蓮華は、カウンターに腰掛け、チャーリー・チャップリンという珍しい名のカクテルを優に注文していた。  柑橘系のリキュールを組み合わせていても、さっぱりとしていて香りも良いから好きだと言いながら、グラスに、そっと唇をつける。  何気ない仕草であったが、奏汰の知る中で、そのように品のある飲み方をする女性を見たことはなかった。  大きく、丸く削られた透明な氷が、暗く照明を落とした灯りの中で、宝石のように反射する。  紅茶のようなカクテルの輝きも手伝ってか、やけに彼女の美しさが際立った。 「奏汰くん」  優が奥に引っ込むと、蓮華が頬杖をついて、微笑みかけた。 「今日のお題は『ブラッディ・メアリー』にしよっか。シェイクじゃなくて、ビルドで出来るから大丈夫でしょう?」  シェイカーを振るうものは、まだ教わっていなかった奏汰は、グラスに直接作り、混ぜるだけで出来るカクテルから習っていた。  人好きのする若いママの微笑みは、客の心を癒し、安心させる。  奏汰も、そのひとりだった。  目の前で小首を傾げ、にこにこと親しみのある笑顔で頼まれれば、お題でも、お題じゃなくても、作れなくても、作って差し上げたくなってしまう。 「レシピは、そこの本に載ってるから」  まさに、天使の微笑みだった。
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