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休憩時間には、仮眠も取れるパイプベッドと、ソファのある小さな殺風景な部屋で休める。小さめの冷蔵庫とカクテルの道具、カクテルの本などが並び、身だしなみをチェック出来る姿見もあった。
悪くない職場だと、奏汰は思っていた。
仕事が終わると、近所に借りたアパートへ帰り、殺風景なワンルームで、スタンドに置いたベースを取り、アンプを通さず弦を弾く。
そんな日々だった。
数日が経ち、従業員が帰った後、奏汰の他にチーフ・バーテンダーの桜木優も残る。
閉店後に、奏汰は、優から簡単なカクテルを作る手ほどきを受けていた。
店にある酒やカクテルを作る材料は、練習や研究のために、使って良いことになっている。
優は、一八〇センチを越える背丈で、細身であり、手の指も長く、男にしては綺麗な手が印象的だった。
ベースを弾く奏汰は、人の手にも自然と目が行く。バーテンダーは、爪の手入れも行き届いていて、ハンドケアもしているのだなぁと、密かに感心する。
仕事中はアップにしていた髪をほどいた蓮華は、カウンターに腰掛け、チャーリー・チャップリンという珍しい名のカクテルを優に注文していた。
柑橘系のリキュールを組み合わせていても、さっぱりとしていて香りも良いから好きだと言いながら、グラスに、そっと唇をつける。
何気ない仕草であったが、奏汰の知る中で、そのように品のある飲み方をする女性を見たことはなかった。
大きく、丸く削られた透明な氷が、暗く照明を落とした灯りの中で、宝石のように反射する。
紅茶のようなカクテルの輝きも手伝ってか、やけに彼女の美しさが際立った。
「奏汰くん」
優が奥に引っ込むと、蓮華が頬杖をついて、微笑みかけた。
「今日のお題は『ブラッディ・メアリー』にしよっか。シェイクじゃなくて、ビルドで出来るから大丈夫でしょう?」
シェイカーを振るうものは、まだ教わっていなかった奏汰は、グラスに直接作り、混ぜるだけで出来るカクテルから習っていた。
人好きのする若いママの微笑みは、客の心を癒し、安心させる。
奏汰も、そのひとりだった。
目の前で小首を傾げ、にこにこと親しみのある笑顔で頼まれれば、お題でも、お題じゃなくても、作れなくても、作って差し上げたくなってしまう。
「レシピは、そこの本に載ってるから」
まさに、天使の微笑みだった。
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