46人が本棚に入れています
本棚に追加
/530ページ
Ⅰ.(1)ジャズの月(*)
横浜みなとみらい━━
馬車道を通り、横浜赤レンガ倉庫と海を見ながらビルの地下へと狭い階段を下りて行く。
『Bar J moon』と彫られた真鍮の表札が打ち付けられている洋風の木戸を開けると、青い絨毯貼りの、落ち着いた雰囲気の、上品なバーの室内が待ち構えている。
その木戸ではなく、奥にある従業員用の目立たない扉を開ける。
制服に着替え、客席のテーブルを吹き始める。
開店前からかかっているジャズは、古いものから新しいものまでランダムだ。
カウンターと正反対の壁側には、グランドピアノとドラムセットが置かれ、天井にはスポットライトが備え付けてある。
週に数回、ジャズの生演奏が行われる。
店の名前も、「ジャズの月」のようなイメージで付けたらしいと聞く。
プレイヤーはアマチュアが多く、たまにプロや、定期的に学生の日を設けたりもしていた。
奏汰も利用したことがあり、それをきっかけにアルバイトをすることになった。
ここでは、主にミュージシャンを夢見る若者が働いている。
新米の奏汰の仕事は、店内と休憩室、シャワー室の掃除や、接客、注文されたものを運ぶ等であったが、そのうち、カクテルの作り方も教わる予定だ。
「おはようございます!」
業界では、朝でも夜でも、最初の挨拶は「おはよう」だ。
「おはよう~!」
バー『J moon』のママ・水城蓮華だった。
初めて店を訪れた時から、若いと思っていた。
「どう? 少しは慣れた?」
そうにっこり微笑んだ彼女の笑顔に見入っていて、返事が遅れた。
開店時間をしばらく過ぎると、スーツ姿のビジネスマンたち、着飾ったOLたち、楽器の入ったケースを持つ若者たちなどがやって来る。
サンドウィッチやパスタなどの軽食も用意はあるが、注文は、もっぱらアルコールと肴だ。
店のBGMで流れるジャズは、古き良き時代のものから新しいものまであり、うっかりすると、聴き入ってしまう。
ついベースのフレーズを耳で追っていたり、コードを聴き取っている。その時点で気付ければ、すぐに現実に戻ることは出来るが、それが進むと、右手の指が見えない弦を探っている。
困った癖だと自覚しながらも、これまで、なんとか同僚に見つかることなく仕事は出来ている。
最初のコメントを投稿しよう!