784人が本棚に入れています
本棚に追加
コンクリートに座った尻が冷えていた。
「あの……お隣、今日は帰らないんじゃないすかね?」
ドアが開いた、と思ったらそれは隣の部屋だった。
大学生だろうか。二十代くらいの若い男だった。
「あ、すみません」
反射的に立ち上がり、俺は謝る。
音を立てたりはしていないつもりだったが、アパートの廊下に男がずっと座っているというのも怖いだろう。だが帰るつもりはなかった。
「寒くないすか……?」
男は遠慮がちに声をかけてくる。どこかのバンドのTシャツに、パーカーを羽織っていた。
俺は朝までだって、ここで粘るつもりだった。
浮気の証拠を、掴まないといけないのだ。
「あのこれ、よかったら」
男はそう言って、ひざ掛けを差し出してきた。
「いや、大丈夫です」
そう言って俺はかろうじて笑みを浮かべる。
毬子はたぶん、俺を裏切っている。連絡が通じなくなったのがその一番の証拠だ。
今日だって、LINEをしているけれど既読にならない。
平日の夜に、定時に仕事を終えたOLがなぜ家に帰らないのか。もう10時を回っている。でも、彼女は帰ってこない。
こうなったら、帰ってくるまで待つつもりだった。
「いや、あの、大したものでもないんで」
男は食い下がる。別にそこまでして断るものでもないかと思い、俺はひざ掛けを受け取る。
薄い黄土色のごわごわしたそれは、会社で同僚が使っているようなかわいらしいものとは全然違う。
だけどその素朴さが、何だか心に染みた。
スーツのままで、上着を着てこなかったのは確かに失敗だった。
10月のこの季節、遮るもののない廊下は冷えた。特にコンクリートの床がいけない。
「すみません」
「ドアの前に、置いといてくれればいいんで……」
そう言って、男はまた部屋に戻っていった。一瞬、彼の部屋の中の温かい空気が漏れ出してくるのがわかった。
何をしているんだろうと、思わなくはない。
彼女の家の前にずっと陣取って。
浮気の証拠を抑えたとして、どうするつもりなのか。
すがるのか、脅すのか。終わりにするなら、さっさとすればいい。
俺は未練たらしく携帯を確認する。
やっぱり連絡は来ていない。
「はぁ……」
「あの」
また隣の部屋のドアが開いた。男は手に、鍋を持っていた。
湯気が立っている。
最初のコメントを投稿しよう!