784人が本棚に入れています
本棚に追加
職場からそのまま来たので、夕飯も食べていない。身体は冷え切っていて、出汁の匂いに思わず腹が鳴りそうになる。
「おでん、食べます?」
・
男は下田代勇夫、と名乗った。
名前とあまり合わない印象の、ちょっとちゃらそうな男だった。髪はごく短く、こざっぱりとしている。よく見ると少し茶色く染めているようだった。
「いや、すみません、あんなとこで……」
「いやうちこそ散らかってんすけど」
だがそう言う彼の部屋は、鞠子の部屋よりもよほど片付いていた。
俺はさっき借りたひざ掛けを畳んで部屋の隅に置く。
「これ、ありがとう」
「ああ……その色、似合いますね」
「え? ああ……どうも」
そこらのホームセンターで買ってきたような安っぽい家具ばかりだが、大学生らしい部屋だった。見慣れない分厚い教科書が積んであるのも新鮮だった。
「理系?」
「工学部です」
この近くには大きな大学がある。きっとそこの生徒なのだろう。
「普段研究室詰めてばっかしだから、たまに家帰ると料理したくなるんすよね」
部屋に上がったのは、単純に暖かそうだったから。それから食べ物にも惹かれた。
しかし他にも理由はあった。ここなら、おそらく鞠子が帰ってきたら音ですぐにわかるはずだった。
暖かい場所で食事をしながら鞠子を待つ。悪くない。
下田代は、いいと言ったのに缶ビールも出してきた。
「いや、このおでんだけで十分だから」
「でも、おでんといえばビールじゃないすか?」
そう言われて手が迷う。部屋の中は暖かく、おでんはおいしかった。
なんと、下田代が自分で作ったものだという。これも鞠子よりよほどうまい。鞠子が一度作ってくれた肉じゃかは、焦げて黒い汁にまみれていた。
酒を飲むのは久しぶりだった。
普段は飲み会でも、あまり飲みすぎないように気をつけている。ビール一本で顔が赤くなる体質なことは知っているし、そもそも強くない。
「……だから、俺は何をしてるんだろって、思わなくもなくて」
「そうっすねー」
気がつくと、俺はぺらぺらと自分の苦悩を話し始めていた。
鞠子とは、俺が元いた職場で知り合った。今は異動しているが、その頃の同僚は俺と彼女の付き合いをみんな知っている。
理想のカップルだとか、結婚は秒読みだろうとか、そんなことばかり言われた。
愚痴は言いづらかった。
最初のコメントを投稿しよう!