六夜 鵲の橋

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「あーっ、何かこういうの、絵はがきで見たことがあるような気がする」  ハイド通りを北に向かって立つと見える金門水道と、そこに浮かぶアルカトラズ島とフィッシャーマンズ・ワーフを背景にして、坂道を上がって来るケーブルカーを見ながら、舜は言った。  今は、夜――。  一時間ほど前にサンフランシスコに着き、二人は今、ロシアン・ヒルの高級住宅街を前にしていた。  一人は今、丘の上から辺りの景色を眺めて呟きを零した少年、舜である。  十六、七歳であろうか。  夜そのもののような漆黒の髪と、神秘的な射干玉の瞳は、彼が持つ東洋の美貌を、より端麗なものとして、際立てている。まだ少年らしい線の細い体躯も、蒼白い肌も、決してひ弱な印象を与えない。  黙っていれば、本当に、夜の精霊のような少年、である。普通の人間とは、どこか雰囲気が違うのだ。  そして、もう一人は、栗色の髪に、琥珀色の瞳を持つ、二五、六歳の青年である。軽くウェーブのかかった肩までの髪も、優しげな性格を表す面貌も、人が善さそうに、整っている。人間としてのレベルでは、中々の青年であっただろう。  それでもやはり傍らの少年に見劣りしてしまうのは、その少年が、あまりにも人間離れした美貌を持ち過ぎているからだ、としか言いようがない。人の世界にこれほどの美貌はあり得ないのだ。  それというのも、この少年――いや、まだ青年の名前を言っていなかった。  デューイ・マクレー――アメリカ人である。アジアの血が四分の一混じっている、というが、それが、その少年に関係している、という訳では、ない。  二人は中国の山奥から、さっきも言ったように、このサンフランシスコに着いたばかりなのである。  カリフォルニアに相応しいカジュアルな装いは、彼らが中国の山奥から出て来た人物である、とは思えないほどに、垢抜けている。まあ、一年と数カ月前までサンフランシスコにいたデューイのアドバイスによるところが大きいのだが。  今は、シングルのカーディガンを羽織っている。  夏のカリフォルニアとはいえ、このシスコは寒流の影響、驚くほどに涼しいのだ。その涼しさときたら、夏でも朝晩はコートやセーターが必要なほどで、年間の気温差もほとんど、ない。  まあ、どんな気候でも、楽しければそれでいいのだが。 「んーっ、あいつがいないだけで、天国だな」  舜は太陽を仰ぐように月を仰ぎ、その解放感に浸るよう、目一杯に、体を伸ばした。  デューイは傍らで、その様子を、にこにこ、と眺めている。  その美しい少年が嬉しいと、この青年も嬉しいのである。理由は――まあ、気恥ずかしいが、愛、という言葉でも使っておこうか。何しろ、このサンフランシスコでは、同性愛も容認され、男同士でも結婚式を挙げることが出来る、というのだから。  しかし、二人は、結婚式を挙げるために、ここへ来た訳では、ない。  まあ、その辺りのことは、追追説明するとして、 「舜、そろそろ家に入ろう。みんな待ってるはずだ。シスコは明日にでも案内するよ」  デューイは言った。  彼の家はすぐそこ――たった今、空港からのタクシーを降りて、まだ荷物も門の前に置いたままである。 「ああ、そうだな。久しぶりの里帰りで、家族にも早く会いたいだろうし」  舜も素直に、翻った。  デューイのお陰で山奥での生活から抜け出せて、しかも、このサンフランシスコに来ることが出来て、もう上機嫌なのである。何しろ山奥での生活ときたら、変人の父親はいるし、娯楽は一つもないし――いや、やっと解放されたというのに、ここまで来て、あの酷い監禁生活のことを思い出すのは、やめよう。  今は、この現実を楽しむことが、最優先である。 「だけど、でっかい家だよなぁ……。まあ、考えてみりゃ、金持ちのお坊っちゃまでもなきゃ、上海の高級ホテルに泊まって、働きもせずに、カメラマンの卵なんて酔狂なことやってられなかっただろうけど」  それだけで立派そうな門をくぐって、舜は、堂々たる屋敷を、高く見上げた。  このロシアン・ヒル、もともとが高級住宅街なので、他にも立派な屋敷はいくつもあるのだが、その中でもデューイの屋敷は見劣りしないのである。 「そ、そんなことは……。中の広さ(・・・・)を言うなら君の家の方が――。第一、彼所に何百室あるのか、ぼくにはまだ解らないし……」 「オレだって知らないさ。黄帝もボケてるから、もう部屋数なんて覚えてないだろーし」  ここで舜が言う『黄帝』とは、自らの父親のことである。  今回の、このサンフランシスコ行きも、その父親、黄帝の口から零れたものなのだ。  そろそろデューイも、『夜の一族』の体に慣れて来たので、一度、家族の元へ帰ってはどうか、と。  デューイが、ほんの十日間ほど滞在するつもりで上海に出掛けたのが、一年と数カ月前、それからデューイは、ある事情のために、このサンフランシスコに帰って来ることが出来なかったのである。  そんなデューイの里帰りに、舜が喜んで便乗したことは、言うまでもない。  この少年、父親の元から離れられるのなら、それだけで満足なのである。  デューイをまだ一人で帰すのは心配だから、と心にもない理由で、ついて来た。
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