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おれはその男を知っていた。
富川さんだ。
なぜか、富川さんは下からおれを見上げた。彼の薄くなった頭頂部が見下ろせた。
「ここらでいいか」
そう言うと、おれの足元を掘りはじめたのだ。
(ちょ、ちょっと何してるんですか。わたしを助けてください!)
おれは叫んだ。
富川さんは一瞬、穴掘りの手を休めたが、すぐにスコップを振り上げた。
何も聞こえていないし、何も見えてないようだ。
だんだん暗くなってきた。
富川さんは、きょうはここまで、と息を大きく吐くとそのまま帰ってしまった。
そのときになって、ようやく、自分がどうなってしまったのか仮説を思いついた。
幽体離脱して樹木に憑依したらしい。
憑依先はクヌギの木。あの丸っこいどんぐりが生る木だ。灰色のごつごつした幹。クワガタムシや黄色スズメバチが樹液に群がる、あのクヌギの木に。
どうしたら元の世界に戻れる?
これは、おれが「あれ」との約束を反故ににした時の報いなのだろうか。
夕闇はさらに濃く黒い色に変わった。
朱色の満月が東の空に浮かんだ。
おれはいっさいの身動きが取れないまま、夜風に身を任せた。
どのくらいの時間が経過しただろうか、闇の奥から話声が聞こえてきた。どうやら子供たちのはしゃぐ声のようだ。
懐中電灯の白い光芒が何本か交錯して、夜の木々を照らしている。
「ミヤマクワガタ、見っけ! わ、でか!」
「こっちはカブトのぶーちんだあ!」
「けっこういるじゃん! 怖いけど、夜のクヌギ林の方がいっぱい捕れるね!」
虫捕りに来た子供たちだ。
おれは思わず叫んだ。
(おーい、助けてくれええ! 誰か大人の人を呼んで来てくれえ!)
子供たちのはしゃぐ声がピタリと止まった。
「おい、いま何か聞こえなかったか?」
「いや、全然。でも、そろそろ帰ろうぜ」
「そうだな、あんまり森の奥へ行かない方がいいよ」
子供たちはおれのすぐそばまで寄っていながら、回れ右をして帰っていく。
(おい、ちょっと、待ってくれよ!)
おれはないはずの両手を伸ばして、子供の背中を触った。
「よお、・・・ちゃん、押すなよ! 暗いからつまずいたら、危ないじゃないか」
「押してないよ!」
子供たちは暗い森の中を走り去っていく。地面を叩く足音が遠くなった。
おれは絶望し、孤独になり、途方に暮れた。
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