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来月分のプロテインを買う金が吹っ飛んじゃったよ、と、ふへへ、とあえて気の抜けた笑い声を出してみるものの、すぐ横の小路をベビーカーを押して歩いていた女性が、こちらを顔を歪めながらチラ見しつつ、猛然とした早足で過ぎ去っただけだった。
走って帰るか、と腰のポシェットに自分のパッドをしまい込んで、深緑の塗装がはげかけているベンチから力無く立ち上がる。
周りを見回し、いかにも座り続けていたから体固まっちゃたよという体で、素早く屈伸と伸びをして体をほぐす。アキレス腱も伸ばしておきたかったけど、流石にそれは露骨だと思い、やめておいた。
このご時世、公然とジョギングでもしてようものなら、監視カメラの映像が学校やら家やらに流されて厳重通告となる。
「走ることが目的であることを悟られてはいけない」。そのため、この、学生服を模して精巧に仕上げられたジャージの上下をいつも着込んでいるわけだが、僕の「趣味」は割と命懸けとも言えなくもない。いや、それは言い過ぎか。
うわ~、15時からの小久保五段と斯波四段の対局、リアルタイムで弟と検討するって約束忘れてたよ~、と不審極まりないひとり言を、どこかにあるだろう集音マイクに向けて放つ。どうだこの通好みの対局チョイスセンス。
そんな約束は真っ赤な作り話だが、要は走れる口実を作れればいい。機械に向かって言い訳をかますのは何とも言えない感じだが、AIは今や神様ですから。
僕が慌てた素振りで足を踏み出そうとした。その時だった。
「少年」
いきなり背後からかかる、しゃがれた低い声。ベンチの後ろからだ。
「……」
まばらな芝生の上に、後ろ手に組んだ姿勢でこちらを睥睨していたのは、真っ白な髪をうねりにうねらせた、結構年いってるだろうけど、頑強そうな体つきで背も僕より高い、背筋のぴんと張ったひとりの老人? であった。
やけにぴんと糊の効いてそうな真っサラな白衣を着こんでいるけど、これを外出着として選択しているのなら、うん、どうなんだろうといった感じだ。
顔色は日焼けなのか酒灼けなのか、色素が淀んだかのような褐色で、これだけでもう正体不明なのだけれど。
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