【どうしてと思うのは簡単だけれど】

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 すると瀬川は、酸いも甘いも通り越した微笑を浮かべ、言った。 「他に出来ることがなかったから、ずっとここに居たようなものだわ。私達世代を───いわゆる専業主婦しかしてこなかったような人間が働ける場所は、当時とても限られていたから。運良くこの仕事にありつけた時は、死に物狂いで必死に離すまいと頑張っていたものだけど。けど子供達が成人してお金がかからなくなってからは、なんとなくの居場所的な感覚で通っていたような気がする。懸命に働いてるあなた達のような若い子を見てると、本当に申し訳ないなって、ずいぶん前から思ってはいたのよ。けど、なかなか辞める踏ん切りもつかなくてね。だって三十年よ? 三十年も通いつめた場所だもの、ここがなくなったら私が私じゃなくなっちゃうような気がして。けど、何事にもやっぱり潮時ってものがあるんだとわかった以上、今度はここを去らなくちゃって思ったの。でも私はこのカルチャーが好き。だから今度は生徒として戻ってくるから、その時はどうぞよろしくね?」  香苗は俯いたまま、辛うじて、「はい」と返すのが精一杯だった。  そして思わずにいられなかった。  果たして自分は瀬川に問い質せるほど、何を思ってここで働いているのか、自分の方こそ目的も意欲もなく、ただここしか働き口がなかったから、を言い訳にしていなかっただろうか、と。  三十年。瀬川がここで過ごした三十年という歳月を想像しようにも、自分の年齢より長い時のことなど到底理解及ばず。けれど。 (三十年後───私はここに居るのかしら?)  居たとしたら、その時には、ここに居ただけの理由が、核がきっと自分にもあったらいいな。  そんなことを思いながら、香苗はあと何回、瀬川と二人切りの勤務枠があっただろうか思い出しつつ、この人生の先輩から学べるだけ学んでおこうと思った、秋の始まりを感じさせる穏やかな午後の一時だった。 【Fin.】
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