ハムチーズとメロンパン

1/1
172人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ

ハムチーズとメロンパン

 芹澤(せりざわ)彼方(かなた)は弁当を食べない。  昼休みは購買のパンかおにぎりを頬張っていることが多い。いまもメロンパンにかじりつき、ほとんど噛まずに飲みこんでいる。半端に閉められたカーテンが五月の風をはらんで、大きくはためいている。  気の合う者同士がなんとなく固まって昼を食べている。教室はざわついていた。  見るとはなしにクラスメートを眺めていた内海(うつみ)(けい)は、彼方と目が合うとあわてて手元の弁当箱を抱えこんだ。 「なに見てんだよ」 「え、いや、その、メロンパンが」 「メロンパンが、なんだよ」 「好きなんだなと思って。よく食べてるよね」  言ってからしまった、と思った。適当な言い訳をするつもりが、つい口が滑っていた。ろくに話もしたことがない奴から、普段食べているものを指摘されるなんて不自然すぎる。さらに言い訳を重ねようとして左手が机に当たり、弁当箱のふたが落下した。思ったより大きな音がして教室に響く。  珪は小さく息を吸いこみ、膝をついてふたを拾いあげた。 「たしかに好きだけどさ。けど、今日はハムチーズサンドのつもりだったんだよ。どうしても食べたかったのに、ちょうど目の前で売り切れになってさ、ハムチーズ」  椅子の背によりかかって口を尖らせる彼方は、珪の動揺にはまったく気がついていないようだった。珪はゆっくりと息を吐いて、弁当箱を持ち直した。 「ああ、あるよね、そういうこと」 「だろう? 口の中じゅう、唾までハムチーズのつもりだったのに」  その場で地団駄を踏みながら、カフェオレの紙パック片手に頬を膨らませている。カーテンの隙間から漏れた日差しを浴びて、少し長めの淡い茶髪は金色に透き通って見えた。 「内海はいつも弁当だよな」  彼方の頭が珪の弁当箱を覗きこむ。髪の先からはシャンプーと整髪料と、かすかな汗の匂いがした。 「いつもってわけでもないけど、弁当が多いかな」  彼方はよほど悔しかったのか、まだ未練がましく「ハムチーズ……」と呟いている。  珪は弁当箱の中身を見て、わずかに首を傾げた。言おうか。言うまいか。こんなことを言い出したら、おかしな奴だと思われるかもしれない。でも、こういう機会はきっともうない。いま言わなければ、次はいつ話ができるかわからない。しばらく迷ってから、彼方の顔を見上げた。 「あの、もしよかったら、これ食べる?」  弁当箱の中のピンクと白が交互に積み重なったキューブを指してみせた。 「なんだ、これ?」 「ハムとスライスチーズを何枚も重ねて、サイコロ状に切ったんだ。おつまみみたいなものだけど」 「え、これ、おまえが作ったの? まじで? すげーな、料理できるんだ」 「料理ってほどじゃないよ、こんなの」  教室は変わらず騒がしい。珪と彼方の会話に聞き耳を立てている者はいないはずだった。 「なんかかわいいな。おかしみたい。食べるのもったいないかも。こんなお菓子なかったっけ?」 「菱餅のこと?」 「そうそう」  問題は、このハムチーズをどうやって彼方に渡すかだった。手でつまんで渡すべきか、箸で渡すほうがいいのか。それとも、弁当箱のふたに載せて渡すのがいいのか。いや、弁当箱のふたは一度落としている。普通の男子高校生は、クラスメートにどうやってお裾分けを渡すのだろう。  珪がためらっている間に、彼方は「じゃあ、遠慮なく」と弁当箱の中のハムチーズのキューブに手を伸ばした。 「おお、うまいじゃん、これ。酒のつまみにも合いそう」 「そりゃ、ハムとチーズだから」  もともとはパーティー料理のオードブルとしてレシピのサイトに紹介されていたのをアレンジしたものだった。手軽に作れて彩りもよいので、珪の弁当には高い頻度でこのキューブが入っている。 「もしかして、内海って毎日、自分で弁当作ってるんだ?」 「うん。高校入ってからはわりと作ってる」 「すげぇなあ。マジ尊敬する」  彼方は目を丸くして大げさに頷き、卵焼きやミートボールの詰まった弁当を眺めている。 「こういう弁当作れる女の子ってさ、いい奥さんとかなれそうだよなあ」  予想していなかった一言に、珪は言いかけた言葉を飲みこんで、唇を噛んだ。彼方は黒板の上の丸時計を確かめると、残りのパンに齧りついた。 「もしよかったら、もう一つ食べていいよ」 「いや、悪いよ。手作り弁当だろう」 「いいって。こんなもので良かったら」 「じゃあ、いただきます」  彼方はハムチーズをつまんで口に入れると、口の端についたパンくずを手の甲で拭った。 「これ気に入ったわ。うまかったよ。ごちそうさん」  右手に残っていたメロンパンを半分に千切ると、珪にさしだした。 「これお返しにやるよ。購買のパンだけど」 「あ、ありがとう」  メロンパンのかけらを受け取る。残りを一口で食べ終えた彼方は、空の紙パックを片手に廊下へ出て行った。  手の中のパンを見つめる。食べたくない。このままとっておきたい。でも、ここで食べないのはあまりに不自然だ。いまのやりとりを、教室の中の誰が見ているかわからない。なにを言われるかわからない。  目を閉じて、思い切ってメロンパンを口の中に放りこむ。口の中でゆっくりと溶けて、ほのかな甘さが広がっていく。  食べ終わって、指先に白い砂糖の粒が残っているのに気がついた。  珪は人差し指の先を舐めとりたいという衝動を抑えることができなかった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!