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つなげない指先
『この先、南阿佐香駅で人身事故発生のため、この電車は当駅でしばらく停車いたします。復旧には時間がかかる見通しです』
アナウンスが流れると何人もの乗客が電車を降りた。息苦しいほど混んでいた車内はすっかり見通しがよくなった。吊り革を握りしめた芹澤彼方は、ドアの側でよりかかっていた内海珪にようやく気がついた。
「あれ、内海も部活だっけ? なにやってんの?」
「美術部。帰りがけに先生から、画材の片付けを手伝わされて遅くなったんだ」
「俺は水泳部。つっても、夏以外は陸上部に混ざって自主トレみたいなもんだけど」
「そうなんだ」
へえ、知らなかった、と言いつつ、軽く相槌を打つ。吊り革を揺らしながらあくびを漏らす彼方は、珪の演技には気づいていないようだった。
「熱心なんだね。やっぱり、走りこみとかやると水泳のタイムもよくなるもんなの?」
「どうだかなあ。やらないよりはやったほうがいいはずだって、信じこまされてるだけかも」
うしろ頭を掻きながら、照れ隠しのように笑っているが、彼方のトレーニングはいつも真剣そのものだった。陸上部員と同じメニューをこなし、最後の後片付けまで同じようにつきあっている。クロッキー帳片手に、美術室の窓から眺めていた珪は知っている。
「芹澤って家、こっちのほうだっけ?」
「いや、今日は池野坂上まで」
「え、僕もだよ。どのへんなの?」
「駅前のツインのタワーマンションわかる?」
「そうなんだ。最近、引越したの?」
「いや、まあ、カテーのジジョーってやつかな」
「そっか。立ち入ったこと聞いてごめん」
電車はずっと止まっていた。制服姿の駅員が何度もホームを横切っていく。片側のドアは開いたままになっているが、地下鉄特有のこもった空気のせいか、こめかみがひくひくと痛んだ。一度途切れた会話を再開するのはひどく難しく感じられた。
『前の電車がつかえているため、この電車は当駅を発車することができません。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけしておりますが、いましばらくお待ちください』
ノイズまじりのアナウンスが流れると、車内に残っていた乗客はそれぞれ重い息を吐いた。
「当分、動きそうもないな。ここで降りて歩いたほうが早いかな」
彼方は床に下ろしていたスポーツバッグを背負って、通学カバンを持ち直した。
「え、歩くつもりなの?」
「二駅だったら、たいした距離じゃないだろ。俺は歩くけど、内海はどうする?」
「じゃあ、歩こうかな」
彼方のあとを追いかけて地下鉄を降りた。二人並んで、案内板で位置を確認してから地上へ出る。沈みかけた夕日に目を細めながら、通りに沿って歩き出した。
「この時間の事故とかやめてほしいよなあ。あー、腹減った」
重いバッグを担いでいるのに、彼方の歩き方は競歩のようだった。珪は小走りでついていくのがやっとだった。
「うちは今日はカレーだ」
「夕飯も自分で作ってるのか?」
「いや、カレーは昨日の残りを温めるだけ」
気づけば、行き交う自動車もライトをつけていた。コンビニや飲食店、ビルの看板の明かりが白く光っている。オレンジ色の空は、急速に色彩を失っていく。
「うちさ、両親とも教師なんだ。あんまり、人には話したことないけど」
「へえ。じゃ、大変だ。自慢の息子なんだろ」
「いや、それはどうかな」
今年の母は特に忙しいらしい。受験生を受け持ち、進路担当を任され、運動部の顧問も引き受けている。帰宅は遅く、朝は早い。家事全般は家に残っている人間がこなすしかない。
「それで、内海は料理うまいんだな」
「別にうまくはないけど、ずっと鍵っ子だったから、どうしてもね」
「一人っ子なんだ?」
「うん。そっちは?」
「おっかない姉貴が二人。どっちも、もう家出てるけど」
「僕は兄弟欲しかったな」
「そうか? あんな姉貴だったら、いないほうがいいぜ。うちの姉ちゃんたち、どっちも見かけはわりと美人だけど性格がサイアク。家では暴君っつーか、もう幻滅だね。おかげで俺、どんな美少女とか見てもグラッとこなくなったもん」
重かったはずの足は羽が生えたように軽い。一歩一歩アスファルトの舗道を歩いているはずなのに、雲の上を歩いているようだった。
突然、ビルの間を吹きぬける風が冷たく感じられた。いつのまにか暗い雲が広がって、空気が重く湿っている。
「おかしいな。道、間違えたかな。一本前で曲がるんだったかな」
交差点に着くと、彼方は急に立ち止まった。鼻先がぶつかりそうになって、珪は前傾姿勢のままなんとかこらえた。彼方は周囲を見渡して指差し確認をしながら、横道へ入っていく。
「雨降りそうだな」
彼方は駆け足で先を急ぐ。珪は必死で追いかける。もっと近づきたいのに、あと少しで手が届くのに、彼方の腕は珪の手をすり抜けて行ってしまう。
ビルのむこうが白く光った。空を見上げていたので、曲がり角から来た二人連れに気づくのが遅れた。すれちがったのは一瞬で、親しげな様子の二人は珪たちの来た方向へ通り過ぎていった。人相や風体まではわからなかったが、どちらも男だった。彼らはごく自然で、風景に溶けこんで見えた。
「な、いまの見た?」
彼方が振り返らずに、そっと耳打ちした。聞き返すより前に、低い声が降ってきた。
「手、つないでたよな、あれ」
「え、ああ、うん」
舌がのどに張りついて、裏返ったような変な声が出た。
びっくりしたーと無邪気に繰り返す彼方に、これ以上近づくことができなかった。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもない。雨、降ってきたよ」
「うわ、ヤバイ。間に合うかな」
遠くで稲妻が光り、しばらくしてから雷鳴が轟いた。
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