他人のはじまり

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他人のはじまり

 日曜の夕飯は水餃子だった。  ヒダを作らなくていいので、焼き餃子よりも気楽に作れる。湯気を立てた土鍋の中で白いかたまりがグツグツと踊っている。蒸し暑い季節にはそぐわないが、これはこれでおいしいので、内海(うつみ)(けい)の家では高い頻度で出てくる。 「そうだ。明日は早くに家を出るから、あとよろしくね」 「朝練だっけ? 最近、忙しそうだね」 「それもあるけど、ちょっといろいろね」  茶碗を手にした母はその先を言おうか言うまいか、ためらう素振りを見せたが、そのまま箸を動かしてご飯に戻った。 「なあ、餃子のタレの味変えたのか?」  半分以上食べ進めてから、父はようやく気づいたらしい。 「うん、今日は新作。柚子の代わりにレモンをきかせてみた。さっぱりしていいかと思って」 「珪はなんていうかこう、センスがあるよな、料理のさ」 「いや、それは誉めすぎだし」 「シェフとかどうだ。いまどき、女の子にもモテるんじゃないか」 「なに言ってんだよ親父」 「なんといったって、流行最先端の弁当男子だからな」  好きで始めた弁当作りではなかったが、やってみると案外性に合っていた。掃除や洗濯に比べれば、料理をするのは嫌いじゃない。夕飯の残り物と冷蔵庫の中身とをにらめっこしながら、弁当の中身を考えるのはそれなりに楽しかった。  家族三人で食卓を囲む機会は週末くらいしかない。水餃子の最後の一つまで平らげてから、食器を台所へ運ぶ。食器洗浄機の動き出す音を確認してからテレビをつけると、若手芸人と女装タレントが出てくるバラエティーをやっていた。 「最近、多いよなあ、こういうの」  父はソファの奥深くまでもたれながら、自分で淹れた緑茶を啜った。 「本人もいろいろ苦労しただろうけど、親御さんもショックだったと思うよ」 「うちにもいるのよ」 「え」  思わず声の出た父と二人、両手で湯のみを抱える母の顔を見つめる。 「今年の担任クラスに、こういう子がいてね」 「え、ああ、そうなんだ」  テレビの中では、わざとらしいほどの明るい笑い声があがっている。チャンネルを変えるに変えられず、珪はお茶を口にするしかなかった。 「で、その、どんな感じの子なんだ」 「不良とか不登校なら、まだ対処法もあるんだけどね。ちょっととんがった文学青年って感じかなあ。頭はいいのよ。ピアノが上手で絵もうまくて。一見、なんの問題もないんだけど、よく言えば個性的、悪く言えば協調性がないっていうか」  気楽に話す父と違って、母が職場の生徒の話をするのは珍しい。普段から、家庭には仕事を持ちこみたくないというポリシーを持っている。 「彼ね、この四月から薄化粧して、スカート履いてるのよ」 「家からスカートで登校してるのか?」 「いや、途中のどこかで着替えてたみたい。うちの学校は制服ないから。これがまた似合ってるのよ。でも、親は息子がスカートで登校してるなんて知らなかったみたいで、もう半狂乱になってね」 「そりゃあ大変だ」 「他人事みたいに言わないでよ。もうどうにも困ってるんだから」  がっくりと肩を落としている母とは対照的に、父はどこか愉快そうに見えた。 「これまで、いじめられたりとかはなかったのか?」 「もともと、浮いてるっていうか、いつも一人でいる子だったから、前の担任からも特に申し送りもなかったのよ。それが、この四月からスカートなんだから」  珪自身はスカートやリボンといった女の子の格好に憧れたことはない。自分で着たいと思ったこともないが、かわいらしく着飾った女の子たちが気になったこともない。 「いったい、なに考えてると、こうなっちゃうのかしらね。わたしには全然わからないわ」  テレビ画面をぼんやり眺めながら、母は首を振った。 「そういえば、おれのクラスじゃなかったけど、そういうタイプでいじめられてる子がいたな。何度かリストカットやって、結局は転校してったな」 「わたしは、当たったことなかったわよ」 「でもさ、人口の何パーセントかは性同一性障害だとか同性愛の人とかがいるわけだろう。ということは、おれらが気がつかないだけで、もともといたんだよ。これまでの教え子の中にだって、こっちが知らないだけで」  それはそうなんだけど、とつぶやく母はまだなにか納得がいかないようだった。 「ねえ、珪の学校ではどう? 男子校だから、そういう話とか聞いたことない?」 「男子校だからって、それは偏見ってもんだよな」 「別に。特に聞いたこともないけど」  用意していた答えを返すと、父は真剣な顔で頷いた。 「おれたちが知らないだけなんだよ。ものの言い方には気をつけたほうがいい。おまえはよく気がまわるほうだけど、こういう子たちは差別的なことを言われたりして、ずっと傷ついているだろうからね」 「でも、こういう問題って、本とか資料とか読めば読むほど、わからなくなるのよ」  母は独り言のように呟いて、頬杖をついていた。珪はこれ以上、この空気を吸うのは堪えられなかった。 「先に風呂入ってくる」  背中を向けてリビングから逃げ出した。下着とパジャマを手にして、風呂場に立てこもる。  母はなにもわかっていない。でも、わかっていないことをわかっている。  父はもっとわかっていない。珪のことを、なにもわかっていない。  目から熱いものがこみあげてくる。止められない。シャワーを全開にした。頭上で固定して、てっぺんからお湯をかぶる。なにもかもを洗い流したくて、珪は熱いシャワーを浴び続けた。
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