十四階のラプンツェル

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十四階のラプンツェル

 探していた参考書はなかった。  読みたいコミックはカバーがかかっている。  もう一軒、探しに出るのが面倒で出口に向かおうとしたところで、内海(うつみ)(けい)は雑誌を立ち読みしている芹澤(せりざわ)彼方(かなた)に気がついた。 『十五分でできる! カンタン一人ごはん』  料理雑誌を真剣に読んでいる様子は、声をかけるのがためらわれた。見られたくなかったかもしれないが、この距離で無視するのも不自然だ。珪がそう思っていたところ、彼方が雑誌から顔をあげた。 「あれ、内海? なんでこんなところに、あ、そうか」 「うん。近所だからね」 「そうだよな、ごめん。ちょっとびっくりして」 「料理はじめるの?」 「え、ああ。なにから揃えればいいのかよくわからなくてさ。でも、あれこれ読んでたら、余計にわからなくなってきた」 「僕にできることがあれば、なにか手伝おうか?」 「本当にいいの? 迷惑じゃない?」 「迷惑なんて、なにもないって」 「じゃあ、よかったら、いまからうちまで来ない?」 「え」 「なんか予定あった?」 「いや、ないよ」 「うちはほら、すぐそこだし。今日は誰もいないし、遠慮しなくていいから」  駅前のタワーマンションでは、常駐の管理人のことをコンシェルジュと呼ぶらしい。警備員の間をすり抜けて、エレベーターホールへ向かう。 「毎朝、通りかかってるけど、この中に入るのって初めて」 「別になんも緊張することないし」  彼方は十四階でエレベーターを降りて、突き当たりの角部屋をカードキーで開ける。 「狭いし散らかっててごめん。本当はここ、俺の家じゃないんだ。親父の弟っていうか、俺の叔父さんの家なんだけど、単身赴任してて家の管理も兼ねて、親父が間借りしてるんだ。でも、親父も出張ばっかりでほとんど帰ってこないから、俺が寝泊りしてるっていうか」 「掃除とか、ちゃんとしてあるじゃん」 「ああ、クリーニングとか掃除のサービスは頼んでるからさ」 「あの、叔父さんの家なのに、キッチン勝手に使っていいの?」 「いいよ、いいよ。叔父さんも親父もポットとレンジくらいしか使ってない」 「じゃ、失礼して」  意外にも、鍋やフライパンといった調理器具は揃っていた。 「もともとは叔父さんにも奥さんいたんだけどね。そこはまあ、大人の事情っつーか」 「えっと、冷蔵庫の中も見ていい?」 「全然オッケー」  中はビールにコーラ、梅酒とチーズ、牛乳くらしか見当たらない。すりおろし生姜やマヨネーズもあるにはあるが、期限切れのものがほとんどだ。 「これは見事だね。お米もないよね」 「下にコンビニあるから、とりあえず暮らせちゃうんだよ。うち、母親もあんまり料理しない人だから」 「芹澤は、この炊飯器でお米炊いたことある?」 「ない」 「嫌いな食べ物ってある?」 「特にない」 「じゃあ、スーパー行って、今日の夕飯から作ってみようか」 「いいの?」 「いいよ。僕も暇してたし」  珪と彼方は部屋を出ると、ビルに直結した食品スーパーへ入って、買いものカゴを手に取った。 「芹澤って、普段はなに食べてるの?」 「適当に弁当買ってきたり、ラーメンとか牛丼食べに行ったり」  珪は頭の中をフル回転させて献立を考える。料理経験のない男子高校生には、手間のかかるものは無理だ。  まずはカートに二キロの米を入れる。自炊が続くかどうかわからないから、保存のきかないものは基本的には避けるべきだ。とりあえず、六個入りの卵と豆腐一丁。 「冷凍食品って食べたことある?」 「あー、母親がよく使ってた」 「じゃあ、食べたいのカゴに入れて」  ハンバーグ、大粒のたこ焼き、フライドポテトが次々に入る。 「あ、これ知ってる。うまいんだよ」  買い物カゴに冷凍エビピラフを入れる。それと冷凍餃子。ニラ、にんじん一本、しめじ一パック、顆粒だし。両手いっぱいの買い物を終えて、二人並んで帰宅する。  モデルルームそのままのようなキッチンで、米の計り方、研ぎ方を彼方に教えていく。 「なんか楽しくなってきた。移動教室の飯盒炊爨(はんごうすいさん)でカレー作ったときみたい」 「家庭科の授業でもやっただろう」 「やったけどさあ。俺、皿洗い係専門だもん」 「で、炊飯予約のボタンを押して」 「あれ? 動かないよ、これ」 「コンセント抜けてる」 「うわ、超受ける~」  ミルクパンで卵を二個茹でる。にんじんの皮をピーラーで剥いて短冊切り、ニラはざく切り。しめじの石づきを落として、バラバラにほぐして、鍋のスープに投入する。豆腐は冷奴だ。料理初心者の彼方が、自分で手順を覚えなくては意味がない。  米が炊ける頃には、それなりに見栄えのする夕飯ができあがっていた。 「スープに冷凍餃子とニラとか入れただけで水餃子になるんだ。うわ、なんか感動したわ」 「簡単だろう?」 「なあなあ、内海も一緒に食べよう」  一人で食べるのは味気ないと言われ、断る理由はなかった。だいぶ早い時間の晩餐を、二人で向かい合わせになって食べる。 「まだ新鮮だから、卵かけご飯でもする?」 「するする!」 「古い卵は生で食べちゃだめだからね」  彼方は生卵に醤油をかけただけで、子どものように目を輝かせている。 「うまいよ、これ。すごいな、おまえ」 「殻を剥いたゆで卵は、明日の朝食べてもいいし、弁当に入れてもいい。残りご飯も弁当に入るよ。あとは、冷凍のハンバーグでも入れておけば十分。弁当の中身は全部、冷ましてから入れること。この家にも、弁当箱かタッパーはあるだろ?」 「あるある。内海はさ、ずっと、これやってきたんだよな。すげーな、マジ尊敬するわ。なあ、迷惑じゃなければ、また教えてよ」 「いいけど」  初めての料理に満足した彼方は、エントランスまで珪を見送りに来てくれた。  彼方に別れを告げてからそっとマンションを回りこんだ。明かりがついたままの十四階の角部屋を見上げる。明日の自分の弁当はなにを入れようか。考えをめぐらせながら、珪はすっかり暗くなった家路についた。
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