思い出は湯気に包まれて

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「ねぇねぇ、優子、まんなかがいい!」 「はいはいー。優子ちゃん、滑らないようにババと手を繋ぎましょうね。本当に唯子にそっくりね、真ん中が好きな所」 「当たり前だよ、私の娘だもん」  あの懐かしい薬湯の香りに包まれながら、年季の入った桶に腰を下ろす。優子が中央に座る事になってから、昔祖母が座っていた右側が私の定位置となった。  祖母の言葉を思い巡らせながら、泡立てたシャンプーで頭を洗う。目を閉じていると私を抱き締めるように、沢山の思い出を包み込んだ湯気が身体に触れてくる。  この銭湯は無くなってしまうけれど、祖母が言ったように思い出は一生無くならない。このペンキの剥がれた銭湯絵も、少し錆びた配管も、欠けたタイルも――この銭湯で見てきた全てが私の脳裏に焼き付いている。近所のオバサンと盛り上がって逆上せた事や、偶然好きだったクラスの男子と鉢合せになった事も良い思い出だ。  髪をすすいだ後は、化粧をクレンジングで落とす。気持ちは子供のままなのに、私もいつの間にか大人になっていた。 「おかあさん!せなか!せなか!」  優子が急かすように、私と母を交互に見つめている。 「はいはい」  フェイスタオルにボディソープをつけて、クシュクシュと泡立てる。列車の先頭車両になるように、桶の向きを変えて優子に背を向けた。 「はーい、ババは優子ちゃんの背中を磨くからね」 「うん!優子はおかあさんの!」  背中を磨かれている心地良さを味わいながら、手持無沙汰な私はただ前を見ていた。懐かしさに浸っていたせいか、無意識で泡のついたフェイスタオルを持って前方へ手を伸ばす。  その時――一瞬だけ白い湯気の向こう側に、祖母の綺麗な背中が見えたような気がした。
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