変わらない旅路

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変わらない旅路

 穏やかな旅を始めよう。  静かな道を歩んでいこう。  鳥が歌えば僕らも歌って、雨が降れば僕らも涙なんか流して見せてさ。  こんな辛気臭い箱庭からは飛び出そう。  夢の様な日々を過ごそう。  笑える様な未来を探しに行こう。  だから、この手を取ってはくれないかな?  その時の言葉を、差し出された頼るには少し細い手を、私は未だ鮮明に覚えている。それだけは憶えている。  朦朧とした記憶の中、その景色をまるごと頭に入れてしまったように、それが、それだけが、記憶の片隅で大きく主張していた。  ただ、どうして自分を誘ったのか。殻の衣を飛び出すのに自分を巻き込んだのか。  その理由を訊いたはずなのだが、問うたはずなのだが。  何故か思い出せなかった。 ・ ・  ガタガタと揺れる音がする。  この体も小刻みに揺れている。  時々、頭を撫でるのはよく知った人の頼りない手。  目を開けば変わることのない彼の笑顔。  おや、起こしてしまったかい? 次の街まではもう少しかかる。まだ眠っていてもいいよ。  心地の良い声。  髪を緩やかに靡かせるような声音に、私の意識は完全に覚醒した。  そうして今の状況を確認した。  所謂、膝枕。      若干の申し訳なさと名残惜しさを綯い交ぜにして私はのっそりと起き上がった。  起きちゃうのかい? 別に君だったら全然構わなかったんだけどな  彼は本当に残念がっているようだった。  それでも顔が変わることがない。  この、貼り付けたような笑顔で残念がられてもなんと言えばいいのか。  そうして声を上げようとして私は、口から息だけを吐き出した。  今日も声は出ないかい? ああ、でも、落ち込むことはないよ。君の声もすぐに戻る。  ……さ、起きたてで喉が乾いてるだろう?  ああ、そうだった、と私は思い出す。私は声が出ないのだ、と。  一体何時からこうなってしまったのか。気付いた時には声を失っていた。  彼が言うには、それは鶯が声を失ったようだった、と。  なんでも、失う前の声は天使が謡うような美しさだったという。  そう、だったという、だ。  これも、記憶に残っていないのだ。  断片的な記憶はしっかりと残っている。だが、大事な、忘れるはずのない、忘れられるはずのない記憶は、すっぽりと、それこそ誰かに盗まれたようにない。  もしかして、声を失って自分の魅力を感じていないのかい? 大丈夫。君は鶯じゃあない。幾つも、幾つも君にしかない魅力がある。だから、自信を持って。  彼は時たま私の心を見透かすように代弁する。そして、当たり前の様に前向きに言葉を発してくれる。  これが彼の魅力なのだ。彼だからこそ今まで旅を続けて来れた。彼だからこそ、居心地を悪くすることがなかった。  あ、その顔は僕の魅力を褒めてくれてるのかな? いやぁ、嬉しいねぇ。え、その胡散臭い笑顔がなければ? あ、あはは……いいと思うんだけどな、笑顔。  ほら、君も笑って笑って!  にぃ、と口に手を突っ込んで横に引っ張っている彼に、私は、私には無理だと首を横に振った。  笑顔は、苦手なのだ。  こそばゆいというか、気持ち悪いというか。自分が笑う姿というものを想像出来ないのだ。  ある時、鏡の前で笑顔の練習をしたことがあった。だが、それはあまりに歪で、私の笑顔のようなものを見た彼が吹き出していたのを憶えている。  だから、恥ずかしくて、笑顔になれないのだ。  おーい、坊主たち。盛り上がってるところ悪いが、もう直ぐ街に着く。降りる準備をしておけよ。  そうなのですか、分かりました。ところで、盛り上がってるように感じました?  男と女が一緒にいるっつぁ、雰囲気がいいか悪いかのどちらかよ。ま、俺には坊主がそっちの嬢ちゃんにぺちゃくちゃ言ってるようにしか感じなかったがな。  今はこの荷馬車に乗せてもらっていた。  生憎と荷車の後ろにしか席がなかったが、2人だけならそれで十分だし、荷物だって彼の腰のベルトに掛けられた鞄だけだ。  私たちに足枷を嵌めるものは無い。荷物になるものだって全くない。声は失ったけれど、自由は得られた。籠の中から羽ばたくことが出来た。  それをしてくれたのは彼。  あれ、もしかしてまだ、声のことを気にしているのかい? 大丈夫。時間はいくらでもある。君の記憶だって、その内に整理がつく。だから今は難しい顔をしないで、めいいっぱい楽しまないかい?  彼だって心の中を見透かせないことがある。  私は特に反応は見せず、延々と続く様な小道を眺めていた。  彼には感謝がある。彼と一緒にいることは楽しい。  彼に気を使う必要はないし、彼に感情を偽る必要も無い。  けれど、ふと気付いたときから胸をつつく、小針のような痛みを訊くことは出来なかった。  この燻った気持ちが何なのか、分からないからだ。  けれど、この痛みを意識する度、何故だか、心地よくも感じるのだ。  おーい、あれー? む、無視はいけないんじゃないかなー? ちょっと、僕泣いちゃうよ? おーい……  泣けるものなら泣いて見せろ。  寧ろ私は彼の泣き顔を見てみたいのだ。  そんな、ちょっとした小悪魔めいた加虐心。  けれど、この思いには純粋な好奇心の他に、何かが混ざっている。  ああ、まただ。  また、少しだけ、痛い。  この何かは、この痛みは、何なのだろうか。  それは、この旅の終わりまでに見つけることが出来るのだろうか。  青い空の下。  私たちの旅は穏やかだった。     
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