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【第一幕・男爵夫人のいとも閑雅なモノローグ】
古の英吉利人が仏蘭西ボルドオ舶来の葡萄酒の艶やかな緋色を鮮血に準えた様に、私のような吸血鬼にとって生き血は上等の葡萄酒の様に芳醇でいとも甘美なる酩酊をもたらす。
ただし、甚だ厄介な事にそれは嗜好品ではなく命を永らえる上で欠かす事の出来ない-渇けば求めずにはいられない、私にとっての命の水なのである。
噎せ返る程に濃密で忌まわしい鉄の臭いと執拗に粘つく厭わしい舌触りを持つ、あの液体を奈翁の敏腕外相が珈琲を慕うが如く愛せざるを得ないのが、人と妖たる我が身を分かつ大いなる険隔である事は疑うまでもない。
生き血を啜る女などきっと想い人の生首を所望する猶太の姫君より余程、魔都の女の称に相応しい。
・・・それでも、罪深いと知りながら罪深い我が生を謳歌せずにはいられないのが私という女の最大の罪業で、忌避すべき化生の性を凡俗の大衆と自らとを決定的に別つ高貴な宿痾と見做して自らをフランソワ・ヴィヨンの如き悪しき生の泥土から生え出でた一輪の清らけき詩情の蓮の花と信じて毫も疑わなかった。
勿論、私の全く正しからざる命には地獄での報いが似つかわしい。けれど、地獄の風情も断りきれない退屈な夜会よりは余程耐え得るものであろうと思われたから〝大洪水は我が後に〟といったルイ王朝風の勇気が私の胸からありとあらゆる清教徒的倫理観を虐殺し尽くしていたのである。
故に、恋する乙女の熱情が若人の唇を求める様な放埒さで、いましめを知らぬ私の唇は今宵もまた濃密な血を欲する。
熱い血潮を紅として艶めく私の唇は、まさに血潮を糧に咲き誇る凛然たる地獄の薔薇である。
・・・私の唇に、一体人は何を感ずるのであろう?
染み付いた血の薫りを恋の芳香と見誤る無垢な情熱家はまさか居るまい。
私は月明かりに白く照り映える恭しく捧げられた首筋に静かに唇を寄せた。
※奈翁の敏腕外相:十九世紀、ナポレオン第一帝政~王政復古期のフランスの外相、ベネヴァント大公タレーラン=ペリゴールを指す。
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