血と薔薇の喜遊曲

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私の乳房の奥で脈打つ緋色の心臓の律動を海原に翻る幾百もの銀濤の音と聞き、夕霧は浮舟の如く安息の微睡みに身を委ねる。 夏の嵐の様な熱情を秘して殊更に閑寂な心境を取り繕う様が、私には憎らしい。 私の肌に牙を立てる事を彼女は涜神の禁忌と見做しているけれど、月の女神程に潔癖でも残忍でも無い私は仮に我が寵臣がその欲望を叶えたとしても花唇に喜悦の微笑を湛えるであろう。 何故なら、その瞬間は他ならぬ私への屈服を意味するのだから。 そして、その屈服は私と夕霧との主従関係の骨肉の紐帯を凡百の呪縛なぞより更に強固なものたらしめる欠くべからざる儀典であった。 而るに彼女は、自らの倫理が担保する薄氷の様な世界の卵殻が崩れ去るのを恐れて立ち尽くすのみである。 千丈の空に走った亀裂から高らかな天使の喇叭が響き渡る世界の死と新生の刻に立ち合う勇気を持たないのだ。 夕霧が踏み出さない限り、私の望みは決して叶わない。 洗練された彼女の奉公ぶりによってもたらされる幸福な安寧の中に身を委ねながら、さながら指先のとげの様に折に触れては胸を苛む欺瞞の感覚を何時迄経っても拭い去れずにいた。 しかし、一方では肺病患者のレントゲン写真の様に私の安逸な日々が憂愁の影に冒されている事が却って私と夕霧との主従関係を倦怠から免れさせ、或る種の危うい香気を加味したのも事実であり、夕霧の恭謙なる反逆の果実を蛇蠍の如く忌み嫌うのは、全く愚かしい逆恨みである事は理解している。 もしかすると彼女の振る舞いは、欲し続ける限りに於いて万物は瑞々しい輝きに満ちて芳しく在り得るものの、それは手に入れた瞬間から忽ちにして色褪せて朽ち果てゆくという欲望の摂理を知るが故のものではないかしら、という疑念を差し挟む余地はあったけれども、それを立証した所で夕霧の狡猾さを明らかにするだけであるし、また事実がどうあれ家来の心境を一々暴き立てる自らの浅ましさを自覚せずにはいられなくなるといった具合に何れにしても不愉快な結末を辿る事が明白であったから、敢えてそうした愚に日を暮らす真似はしなかった。
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