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しかし、いくらなんでもこのままぼんやりとこの場に座して待つわけにもいかない。
腹は減るであろうし、疲れも溜まる。それに、ここの住人たちも暮らしがある。一刻も早く元の暮らしに戻らねばならない。
「はてさて、どうしたものでしょうかな……」
清兵衛も思案顔である。
じっと座っていると、捕り方がじわじわと活気付くのがわかる。
「やれやれ……こちらが大人しいとわかると、途端にあれだ……どれ、鬱陶しいゆえ退けましょう」
英次郎が苦笑を浮かべ、二人を手招きした。こそこそと耳打ちし、二人が驚いた顔になったもののすぐに笑いだした。
「さすが、太一郎親分と修羅場をくぐり抜けてきた御仁だ」
「本当にそれだけで……」
「無論、骨のある武家や人並みの奉行なら通用しない小手先の策、しかし此度は、派手にやればやるほど、お奉行は遠ざかっていくゆえ、しっかりな」
「は、はい」
英次郎は、男に脇差を持たせて動きを教える。
「両の足を開き、足裏でしっかり地を踏む。そうそう。そして腰をいくらか落として……お、いいぞ。刀を抜くなら、しっかり握り……そして、腹の底から声を発する」
あー! と、英次郎が発声した。男が「あー」と真似をするがか細くていけない。
「それは怯えた方の悲鳴かな。もう一度!」
む、と頷いた男が、すうっと息を吸い込み、
「おおおおお!」
「よしっ! 大家どの、頼みます」
「任されよ」
清兵衛が多少己の髪や胸元を乱したうえで扉の前に膝をついた。どすん、ばたん、とそれらしい音を一人で立てるのは英次郎だ。
「今だ!」
英次郎の合図でことさら賑やかに引き戸を開け放った男は、脇差をすらりと抜き、大きく振り上げて大音声。
「聞けっ! おれは、殺ってはねぇんだぞ! さっさと下手人をここへ連れてこい! さもなきゃ、大家をぶっ殺すぞぉ」
素早く周囲を見渡した清兵衛が、足元で震えるふりをしながら、男の足を軽く叩いた。暴れろ、という合図である。
長屋の前に数歩出て、わけのわからぬ言葉を喚きながら滅茶苦茶に刀をふった。英次郎が「うまいっ!」と思わず呟いたほどの名演技であった。刀の動きが無茶であればあるほど「狂ったかもしれぬ」と人々は恐れる。それを、見事にやってのけたのだ。案の定、肝の小さい奉行はまっさきに駆け出している。
「ははは、もう戻っていいぞ」
「はいっ」
「馬鹿面連中にどうこうされるほど、こちとら落ちぶれちゃいねぇ。おととい来やがれってんだ」
白い頬が興奮で朱色に染まり荒い呼吸の男の手から脇差を受け取って拭いをかけながら、英次郎が珍しい物言いをした。
と、そこへ、聞きなれた大声が降ってきた。どたどた、と賑やかな足音つきである。
「英次郎、相済まぬ。ちと異人襲撃の予告が届いたゆえ護衛を……おや、これは何事じゃ?」
太一郎親分の登場である。しかも、相当物騒なことを口にしていた。
聞き捨てならぬ、と逃げ出しかけていた奉行が喚く。
「お奉行、こんなところで遊んでおる場合ではないぞ!」
「遊んでなどおらぬぞ!」
「奉行所にな、異人を襲撃するとの投げ文じゃ。その上、血まみれの中年女が大川端で見つかってな。心中を図ったようであるが、奇妙なことにその相手が見つかっておらぬ」
「なにぃ? 異人襲撃に心中じゃと?」
それだ! と、英次郎が叫んだ。一同が英次郎を見る。
「親分! その、心中の話を詳しく聞かせてくれ」
目をぱちくりさせた太一郎だが、年若い友が深刻な顔をしているのを見ると一つ頷いた。
先ほど発見された女は、腹部に出刃包丁を突き立てて息絶えていた。綺麗な中年女であった。
彼女は、懐に文を持っていた。
10年ほど連れ添った男が心変わりをし、女将の座を若い女に渡そうとするのが許せない。
人知れず苦労ばかりだった。博打や酒、女遊びに散々泣かされ、店の切り盛りも苦労し通しだったが、それでも父の代からの店も惚れた男もくれてやるものかと、男をめった刺しにして殺した。自分もすぐその場で死ぬつもりだった。ところが殺した直後馴染みの料理人が金を借りに来たために慌てて逃げ出して、そのまま大川まで来てしまった。
日本橋、猪牙舟、河岸に市、馴染みの場所は一通り見て回ったので悔いはない。
と、流麗な女文字で連綿と書いてあったらしい。
「親分、その殺された男というのは……」
「わからぬ」
「おそらくそれは……いや、間違いなく大将のことだぁ……。うう、女将さん……」
訳が分からぬながらも、太一郎は叫んだ。
「お奉行、何をしておる。急ぎ奉行所へ戻られよ」
「その男はなんとする」
「我が衣笠組に預からせていただきたい。なに、勝手に逃すことはない。何かあれば、いつでもこやつを連れて奉行所へ出向こう」
しかし、とそれでも渋る奉行に、親分があれこれと話しかける。
宥めすかされた奉行が「撤収じゃあ!」と駆けだしていくのを見送り、親分は説教部屋へとやってきた。何か言いたそうな一同を制して親分は叫んだ。
「英次郎、すぐに異人警護じゃ! 来てくれ」
「待った、親分! 彼を連れていかれるとここの警備が手薄に」
「案ずるな、夜半までには英次郎を戻す」
それでは遅い、と清兵衛が即座に言う。
「いったい異人はいつ、どこへ移動するのですか」
「長崎屋とどこぞの大名家の上屋敷をまわり、寺へ寄って料亭へ参り……定宿へ戻るのは夜も更けてであるとか」
「そんなに異人に勝手にうろうろされては……」
清兵衛が呆れた風に言う。攘夷派に襲撃されるのも致し方なかろう、とでも言いたそうである。
「……江戸で異人がどうこうなると、異人の国が出てきて金だの待遇だのと至極厄介なことになる、そうであったな、親分」
英次郎が、身なりを整えながら言う。太一郎が頷く。
「よし。さあ参ろうか、親分。大家どの、その男をしばらく預かっていただきたい。なに、日暮れ前には必ず戻ります」
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