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「しかしそれがし、天然理心流とは対峙したことがないゆえ、どのような流派なのか知らぬのだ。本来なら下調べをして然るべき稽古をして対戦を願い出るのが筋かなと思うが、手順を踏んでいる間におじじが首を括りそうな気配」
太一郎は若き友人の顔を見た。真剣な面持ちである。
「親分、喧嘩の勝ち方を教えてくれ」
「勝ち方、か」
喧嘩の勝ち方などいくらでもある。卑怯な方法も、いくらも知っている。
しかしそれを、若き武家の青年に、それも、まじめに生きていた御家人の次男坊に伝授するのはいかがなものか。
「天然理心流なぁ……道場は甲良屋敷だったな」
「親分?」
「まずは、その薬売りが本当に天然理心流の門弟かどうか確かめねばなるまい。天然理心流を勝手に名乗った流れの剣客かもしれんぞ」
にっ、と親分が笑った。
やかましいほどの蝉が鳴いて汗が滝のように流れているはずだが、太一郎はそれどころではなかった。
「あああ……英次郎、やめよっ! 万が一骨でも折ったらお絹さまに申し訳がたたぬ……」
吹っ飛んできた英次郎を、避ける気にはなれず咄嗟に受け止めたが親分の巨体をもってしても勢いは殺せず、ふたりして羽目板に強かにぶつかってしまった。
「う……」
「ああっ、親分! 相済まぬ、どなたか水を……」
英次郎が頼むより先に、奥から女性が走り出てきて手早く介抱する。
「さ、みなさま、お稽古を続けてくださいな」
「親分、親分……」
「大丈夫ですよ。じきに気が付くでしょう。さ、立ち合いにお戻りください」
「かたじけない」
※ ※ ※
牛込にある甲良屋敷、その一角に天然理心流の道場は確かにあった。
「試衛館……ここか」
そう呟いた英次郎は、瞳を輝かせて門をたたいた。出てきた稽古着姿の男は、英次郎と太一郎の身元を確認することもなく道場へと案内してくれた。
「親分……ずいぶん不用心な道場に思えるが……」
「わしのところへ盗人が入らぬのと同じじゃな、ここへ入ろうと思う馬鹿はおるまい……」
どれが薬売りでどれが正式な門弟でどれが師範なのかさっぱりわからない道場の中には、むさくるしい男、いや、剣術馬鹿がひしめいていた。
やくざであるのにどこか風流な太一郎など早々に逃げ出したくなる剣呑な雰囲気である。すでに、巨体を精一杯縮めて及び腰である。
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