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太平の世が長く続き、剣術など形式上のものになり果てていたはずであるが、この道場は昔ながらの「生きた剣術」が行われている。剣術馬鹿と言っても過言ではない英次郎が、すっかり喜んでしまったのも、当然だった。
「これは本物の道場だぞ、親分!」
「そうじゃな」
だが、得体の知れない、些か時代遅れかもしれない連中の中に英次郎を解き放つわけにはいかない。
「わしが、本当にあそこの門弟が道場破りか探るゆえ、暫し待て」
道場破りをするような無法者がそのまま道場へしれっと通っているものだろうか、というのが太一郎の懸念だった。そのような者は破門にされていてもおかしくない。
「親分、だめか?」
「う……」
「少し、ほんの少し……頼む」
「ううむ、一刻だけじゃぞ!」
小躍りして稽古を申し込む英次郎の後姿を見ながら道場の隅に端座した親分のもとへ、稽古着姿の若い男がお茶を運んできた。それにあわせて、親分はふところから油紙に包まれたものを引っ張り出した。
「……あ、もしやそれは! お絹かすていら、では?」
色白の青年が目をきらきらさせていた。月代も綺麗に剃られ、胴着も手入れが行き届いている。どこぞの武家の子息であろうか。
「貴殿、これをご存知か」
「おれ、大好物!」
太一郎は、う、と詰まった。英次郎とは異なる種類の、まっすぐな瞳が向けられている。期待に満ちた子犬とでもいうべきか。
「……一欠けら……差し上げる」
掌に乗せてやれば、青年は鼻を近づけて香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「うわぁ、ありがとう! 貧乏だから滅多に食べられないけど、ほんとに好きなんだ。甘くてふわっとして、幸せな心地になるよね」
「お絹さまに伝えておこう。きっと喜ばれる」
「知り合いなの? いいなぁ……」
実に幸せそうにかすていらを食べる青年剣士。太一郎は「世の中知らぬことがおおいものじゃな」とつぶやいていた。
お絹かすていらを食した青年は、すっかり元気を取り戻し、英次郎と手合わせをした。
年齢が近かったのだろう。
次第に二人は闘気が激しく高まり――師範がいったん試合を止めようとした瞬間、英次郎が吹っ飛んだのである。
※ ※ ※
「親分……お気がつかれましたか」
親分が目をあけたとき、側には若い女性がいた。道場の下働きか、師範の妻か。
「む……?」
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