夏の日の道場破り

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「羽目板に叩きつけられたのです。覚えておいでですか?」 「そうであったな。英次郎は無事か?」 「はい。元気に稽古をなさってますよ」  無事ならばよかった、と、親分は安堵した。  その後、英次郎の熱は下がる気配がなく――渋る英次郎を引っ張って帰ることに親分は非常に苦労するのである。  数日後の夕暮れ時、親分が佐々木家へとやってきた。枝折戸が危なっかしく揺れ、まさか壊れたかとひやりとするが、それは大人しく元の場所へ戻ってくれた。  裏庭へ回って声を掛けると、すぐに英次郎とお絹が姿を見せた。 「親分、さぁさぁ、こちらへ」  夕餉の支度をしていたのであろう前掛けをしたままのお絹が、親分を屋敷の中へ案内した。すぐに帰るからと遠慮する親分に向かって、 「親分! もし夕餉がまだだったら、一緒にどうだ? 今宵はそれがしと母上、ふたりだけなのだ」  と、にこにこと英次郎が笑いかける。ぐぅ、と、太一郎の腹が鳴った。 「親分、今日は鮎がたくさん手に入ったのです」  お絹が手早く太一郎のぶんの膳を用意する。口では遠慮の言葉を述べている太一郎だが、目はもう夕餉に釘付けである。 「なんと美味そうな……! しかしご亭主やご隠居より先に頂いては」 「大丈夫だ、我々が最後です」  つまりは、腹ごなしをしてどこぞへ――おおかた、夜開く賭場へ出かけたのだろう。お絹や英次郎がやりくりしたお金が、こうやって出ていってしまうのだ。太一郎はそれがなんとも切ない。 「さぁさぁ、親分、英次郎、頂きましょう」  行儀よく母子が手をあわせ、親分もそれに倣う。  鮎の塩焼きが置いてある。冷ややっこに大根おろしをのせたもの、胡麻をさっとふったきんぴらごぼう、庭でとれた菜を塩漬けにした自家製漬物、白米に味噌汁。 「美味い! すばらしい味付けじゃ」  一口食べるごとに親分が絶賛するため、お絹も嬉しそうである。  親分の腹が膨れたころ、お絹が冷酒を運んできた。肴にはなんと、南蛮菓子のぼうろが添えてある。それらを摘まみながら、親分が上機嫌に告げた。
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