曰く付き長屋

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「まずは卵から」  小さな鍋を取り出した喜一は、手際よく鰹の出汁をとり、醤油を入れてすまし汁を作った。それだけでふわっといい香りが広がる。  そこに、泡が立つほどにといた卵をぽとんと落とす。  わぁ、と浮羽の目が輝いた。どうしたことか鍋の中で卵がふんわりと膨らんでいる。 「へい、玉子ふわふわでござい」  お椀によそって浮羽の前に置けば、僅かに浮羽の頬が緩んだ。 「可愛い食い物であるな、浮羽」 「ささ、出来立てが一番じゃ」  太一郎が浮羽に箸を持たせたり熱いぞと注意したりする傍らで、喜一は大根を細く刻み、さらには白魚をさっと茹でる。 「白魚と大根ですか」  青葉が不思議そうに喜一の手元を見る。献立の予想がつかないのだろう。 「おっといけねぇ大家さん、山葵はあるかね?」 「うむ」 「ちょっと手を貸してくんろ」」  喜一の指示で、糞真面目な顔をした清兵衛が山葵をおろす。 「よし、浪人さん、そこの大皿をとってくだせぇ」 「これかな」 「それだ」  白魚と大根をさっくりと混ぜたものが皿に綺麗に盛られ、傍に清兵衛がおろした山葵がのる。 「よっし、これで完成」  頷いた清兵衛が、麦飯を運んでくる。 「なにも案ずるな。ゆっくり食うといい」  誰にということなく礼を述べる青葉の声は涙に震えて声にならなかった。 「さてここが、本日より我らの塒だ」  青葉の声が、九尺ニ間に響く。  傍で、浮羽がこくり。腹いっぱいに食べたからか、顔色もよくなっている。 「よいか、くどいようだが、それがしのことは青葉ではなく父上と呼ぶのだ。それがしも、お嬢ではなく浮羽と呼ぶ」  こくこく。 「それがしは、さる大名家に仕えていたがわけあって娘を連れて出奔したということになっている」  じとっ、と不満そうな目が青葉に向けられる。 「仕方あるまい。本当のことは誰にも言えぬ。言ったが最後……」  うん、と、浮羽が頷く。俯いた浮羽を、青葉が躊躇いがちに撫でる。 「泣けばいいのだぞ? そなた、里を出てから――というか、あれから泣いていない」  浮羽が、青葉の袴をぎゅっと掴んだ。泣くまいとしているのか、唇が震えている。  その頭を、青葉がぎこちなく撫でる。 「よいよい。浮羽、ここの暮らしに慣れるまで、しばらくは苦労をかけると思うが辛抱してくれ」  明日より、長屋の人たちを順次紹介してくれるらしい。 「どんな人たちだろうな」  清兵衛にも、太一郎にも「驚くな」と念を押されているが――。  浮羽が、ふいに青葉の腕をぎゅっと握った。泣いてはいないが、唇が引き結ばれている。 ――奴らがこの長屋を襲ったらどうしよう  浮羽がそう思っているのを、青葉は的確に見抜いた。腰を落として浮羽と目線を同じくする。 「大丈夫、誰が遣わされようとも、この青葉が必ず追い払う。住人も、大家どのも、浮羽も、守って見せる。ゆえに浮羽は決して……」 「……わかってる」 「何も案ずるな」  子くん、と頷いた浮羽は、己の手をじっとみた。  太一郎がさっき、箸を握らせてくれた。お椀の持ち方を教えてくれた。 「武家の娘ごであるからには……」  と、普通の子どもとして扱われて、嬉しかった。 「また……」 「ん、あの縦にも横にも大きい親分か?」  うん、とおかっぱ頭がゆれる。 「きっとすぐ会えるさ」  浮羽が、仕事の対象としてでなく他人を気にかける、いや、気に入るなど珍しい。 「さて、布団や蝋燭、皿などをそろえねばならんな……」  常に羽織はかまでいるわけにもいかないし、浮羽の着替えもいる。 「……金が足らぬな……」  財布の中は、空っぽだ。清兵衛長屋になかなかたどり着けなかったため、想定以上の路銀が必要だった。  日傭取り、という日雇いの仕事をあっせんしてくれるところがあると聞いている。  どのような仕事なのかさっぱりわからないが、働かないことには食べていけない。 「明日の朝いちばんに……口入れ屋を教えてもらわねばならんな」  きょとんとする浮羽の頭を撫でて、青葉は腰の大小を外した。
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