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その文を受け取った男は、清兵衛に促されて何度も何度も読み返したあと、肺が空になるほどに大きく息を吐きだしてその場に蹲り頭を抱えた。
「おれはいったい何のために……」
「貴殿、本当に人を一人殺めていたら、それどころではないのだぞ」
そう言いながら清兵衛が、脇差を男に手渡してやる。う、と男の嗚咽が響いた。
「さて、お奉行にはなんと説明したものか……大家さん、何ぞ知恵はありますか」
「まことの下手人がすぐに捕まれば万事解決……しかし……」
どことなく清兵衛の歯切れも悪くなる。南町奉行の腑抜けぶりは誰もが知っている。
「あの南町のこと、期待はできませんからな、他を頼るしかない」
それしかあるまい、と、英次郎も腕を組んで思案顔になる。しかし奉行が頼りにならぬとなれば、自力で下手人を捕まえねばならない。が、そもそも誰を捕まえれば良いのか、そこからである。
「貴殿、まことの下手人に心当たりは」
「ありませんや、佐々木様……。いかんせん、飯善の人たちは出来たお人で、ひとさまから恨まれる覚えはねぇはずですよ」
「ほう?」
「奉公人も、見習い料理人も、誰一人陰口叩かないし、客にも評判はいい。礼儀正しく誰にでも好かれるお人でさ。いっそ品行方正過ぎて息苦しいくらいだ」
英次郎は素直に感嘆しているが、それはこの男が何も知らないだけではないか、と清兵衛は思っていた。男の年齢のわりにあまりにも完璧すぎる。
さらに、疑問はある。
大繁盛している店に金子を盗みに入ろうと思う者はこの男以外にもいただろう。しかし、盗んでいる最中にうっかり鉢合わせたとしても、背中をめった刺しにする必要はない。何者かの強い恨みや憎しみを感じるのだ。
「あ、ただ……経歴が少し不明なんで」
「ほう?」
「日本橋に来たのは十年ほど前だそうで、なんでも明け方に火事を出した小料理屋が大将を喪って途方に暮れていたときに、その店の娘、つまりいまの女将さんがどこからか連れてきた男なんだとか。その前はどこで何をしていたか一切不明で何も教えちゃくれませんや」
そのあたりに秘密がありそうだ、と清兵衛と英次郎は同時に思う。思うが、長屋に閉じこもった状態ではどうにもならない。
さらに悪いことに、一度はどこかへ去ったと思われた捕り方が、じわじわと戻ってきている。おおかた、数名の見張りだけを残して奉行は引き上げていたのだろう。
そろそろお出ましを、と、子分どもが上役の尻を叩いて現場に出てきたのだろうが、それでも遠巻きにしているだけで事件を解決しようという気は感じられない。
「どうしたものかねぇ……」
は、と清兵衛は短く息を吐いて目を閉じた。
これがもっと普通の店子たちであったなら清兵衛はとっくに救出されているだろう。だがその場合は、この逃げてきた男は捕縛されている。
普通ではない店子たちだからこそ――関わろうとはしないし、見て見ぬ振りもするだろう。何があっても。
清兵衛は、くわっと目を開いて、脇差を抱いて背中を丸めている男を見た。ここへ駆け込んできたときのような勢いはすっかりなくなり、草臥れた、ただの若い町人である。
「その方」
「はい?」
「逃げよ」
男は目をぱちくりとさせ、英次郎は「やはりそれしかないか」と苦笑する。
「英次郎さん、ご足労ですが彼をうまいこと親分のところへ連れて行ってくれますか」
「承知しました。しかしここの長屋は、表通りには抜けられない袋小路、隠し通路の類もないのだとか」
さようです、と清兵衛が頷く。
「ならば、陣取っている捕り方を動かすしかないのですね」
「なんぞ案はございますかな」
ある、と英次郎が頷く。
「……おそらく、今宵も事件が起きましょう。新しい住人を狙った襲撃が。その騒ぎに乗じて抜け出しましょう」
今宵、と清兵衛はつぶやく。今はようやく午ひるになるかならないか、という頃合いだ。あまりにも先が長い。
「運を天に任せるような心地ですが……それしかない」
英次郎が見た限り、例の曲者たちは何が何でも、浮羽と青葉という父娘を始末するよう厳命されているように思えた。
敢えて木戸の前に転がしておいた男たちは、すぐに回収されていた。闇に蠢いていた気配から他に仲間がいるのはわかっていたが、英次郎が思う以上に大きな組織かもしれない。
大きな組織が、暗殺をしくじった。
あの親子だけでなく応戦しようとした長屋全体が無事である保証はないため、太一郎とも相談の上、英次郎がここへ住み込むことになった。
「あの親子のことを思えば襲撃はない方が良い。しかし、彼のことを思えば……複雑な心持です」
と、素直に英次郎が心中を吐露する。
それとは別に――英次郎は、太一郎が戻ってくるのではないかと思っていた。浮羽という少女のことをひどく気にかけていた。
太一郎が戻ってくれば、この状況は間違いなく動くのだが。
いずれにせよ、運を天に任せる心地の英次郎と清兵衛であった。
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