1883年(明治16年) 東京

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1883年(明治16年) 東京

エドワードの大森での発掘調査から6年後の1883年、帝国大学の一室で外山(とやま)はある学生を招き入れていた。 「赤門天狗(あかもんてんぐ)」と呼ばれ、流行に敏感だった外山(とやま)は派手な色の外套と山高帽を机に置くと、招き入れた学生にも席を勧めた。岩手で生まれたこの学生は札幌農学校で学んだあと、大きな志を胸に上京していたのだった。 外山(とやま)は自身が体験してきたこれまでの学究の人生を丁寧に話し始めた。江戸の小石川に旗本の子として生まれたこと、勝海舟にイギリス留学を勧められたこと、南北戦争中のアメリカに留学していたことなどを、この未来ある若者にどうしても伝えておきたかったのだ。 「ときに、キミは何のために学問を続けているのかね?」 外山(とやま)が尋ねると、若さに満ち溢れた学生は即座に答えた。 「皆が平和に暮らすためにも、私は太平洋の架け橋となりたいのです」 外山(とやま)は青年の大志に感動を覚え、外套のポケットに肌身離さず持ち歩いていた宝物を学生に託すことにした。 「これはエドワード、いやモースと言った方がわかるかもしれないが。彼が大森で発掘調査をした際に見つけ、私に譲ってくれた私にとっての宝物だ。是非、キミに受け取って欲しい。いや、キミに持っておいてもらうべき物のような気がしてならないのだよ」 学生は驚きと恐縮の表情で受け取り、外山(とやま)に御礼を述べた。 「見たこともないような美しい貝殻です。二つの青い帯状の模様がとても神秘的な感じを醸し出します」 学生の名は、新渡戸稲造(にとべいなぞう)。 のちに世界の架け橋となり、武士道を著し、皆を平和に導いた人物である。 エドワード・モース、外山(とやま)正一(まさかず)の手を経て、不思議な縁で受け継がれた美しい貝殻。 遠いあの日、女が自らの命と一緒に大地に捨てた美しい貝殻に秘められた縄文時代の願いが、永い時を経て叶えられたのだった。 美しい貝殻はその昔、貨幣の役割をした。この学生がのちに新渡戸稲造として、五千円札紙幣の肖像になったことを考え合わせれば、これも天が創作した物語だったという気がしてならない。 image=513342103.jpg
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