「離れがたき、かの愛着」

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 突如、魔術師トバルは、得体の知れない恐怖感に襲われた。彼は電撃を受けたようにビクリと体を痙攣させると、つかの間のまどろみから意識を覚醒させた。  あたりは暗闇に包まれている。目前の指先すら見えないほどの、無が肉を持って実体化したかのような闇。闇はあたかも生き物のように、湿気と悪臭と瘴気をふんだんに含んだ生臭い呼吸を繰り返している。  トバルは、ボロボロの外套から杖を取り出すと、ぼそぼそとした掠れた声で光源魔法を唱えた。弱々しい白い光がぼんやりと辺りを照らす。  そこは、地下水道だった。分厚く苔むした石造りの壁。時折脇を走り抜ける、猫のように大きいドブネズミ。壁の一角を埋め尽くす蟲の群れ。  前日、地上では雨が降ったのだろう。無数の汚物と死骸が上からやってきて、トバルの目の前を浮かびつ沈みつ流されていく。汚水に洗われて生白くなった死体が、水面を静かに運ばれていく。  光源魔法の白い光が、突然点滅した。 「……ちゃーん……おにいちゃーん……」  声が聞こえてきた。幽鬼のような、夜の墓場の風のざわめきのような、女の子の声。 「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」  それを聞いた瞬間、トバルは嘔吐した。空の胃袋からは黄色い胃液しか出てこなかった。  トバルの心臓が早鐘をつく。やはり、ここまで追ってきたのだ。あれは幻覚ではなかった。妹は、「ああなっても」私を探している。 「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」  耳を澄ます。数分すると声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。  疲労と飢えでキリキリと痛む肉体を強いて動かして、トバルは地下水道を歩き始めた。当てどもなく、ただ足の赴くままに。  これが、あの日捨てたものの報いだというのか?  トバルがここに来てもう一週間になるだろうか? それとも一年か? 彼は時間の観念を失っていた。そう、あの大会戦の時から。仲間を失い、そして、自分の最愛の妹を失ったあの一大決戦の終末の時から。
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