「離れがたき、かの愛着」

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 五年前、地の底より突然現世へと侵攻を開始した魔の軍勢。人間側の被害は甚大だった。国土を失い、人口を失い、富を失い、なにより、尊厳を失った。  だが、立ち上がる者たちがいた。彼らは倦まず弛まず、密かに仲間を集め、武器を蓄え、兵を鍛えた。  そして、あの大会戦へと人間たちは挑んだ。  その結末は、悲惨なものだった。  勇者が消えた。かの勇猛にして高潔、不撓不屈の人類の希望、アンジェイ・ボナベントゥラは、魔王軍本営に突入後行方不明となった。  魔術師ルジャも消えた。勇者にいつも影の如くぴたりと寄り添っていた美貌の女。その行方は杳として知れない。  戦士アイアスと治癒師エウヘニアの夫妻は、乱戦の最中討ち死にした。  そしてトバルは、妹ナアマを失った。誰より愛していたナアマ、彼の半身にして魂の伴侶であるナアマ。ぬばたまの長い黒髪に、新緑の瞳、ほっそりとした華奢な体、そのすべてが美しかった妹ナアマ。  乱戦だった。チームで戦うなど思いもよらなかった。敵は大軍で、そして一斉に突撃してきた。仲間とは早々にはぐれてしまった。  トバルの隣で戦っていたナアマは、腹部に致命傷を受けてしまった。蜘蛛型妖魔の、毒液を分泌する前脚による一撃。  ナアマの白い腹からピンク色の内臓が溢れ落ち、どす黒い血が止めどなく流れ出る。その光景がどうにも信じられず、トバルはただ呆然と見つめていた。  ナアマは最期の力を振り絞って、兄にこう告げた。 「私の死体をここに捨てて行かないで……故郷に連れて帰って……」  そう言って、彼女は息絶えた。その死に顔は、いつもの寝顔のように穏やかで美しかった。長い黒髪も、まだ艷やかな美を保っていた。ほっそりとした手足だって、今にも動き出しそうだった。  ひょっとして、まだ妹は生きているのではないか? ただ動かなくなっただけで。  だが、ナアマの腹には大穴が空いていた。彼女の清らかな魂を外界へと吸いだした、妖魔の穿った忌々しい穴。彼女の死の絶対的な証拠である穴。ようやくそれをはっきりと認識して、トバルは泣き崩れた。
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