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父の日から1ヶ月が過ぎた日、美優紀と正はスカイブルーの車へと乗り込んだ。
「キミが正君かな?」
「うん……」
ハンドルを握る男の後ろ姿に正はおどおどしながら返事をすると、目の前の信号が赤になった。
「はじめまして。僕は正くんのお母さんの友達の、東条時夫っていいます。よろしくね」
時夫ゆっくりと正が聞き取れるように言って振り向くと、白い歯を見せた。緊張した面持ちの正の鼻を時夫の口元のミントの香りがほんの少しだけ駆け抜けた。
車で走ること30分。着いたのは野球場だ。時夫は地図の位置を確認しながら美優紀と正を3塁スタンドに誘導する。そして正を間に挟んで3人並んで座った。
真夏なのに3塁側スタンドは満員。さすがはホームのスタンドだ。その満員の観客から打席に精一杯の応援歌が贈られる。
しかし相手は福岡の強豪チーム。7回表が終わって7対1。試合は終始押される展開が続く。そのとき、時夫は赤色の風船を正に渡した。そして同じものを美優紀にも渡す。
「これ、ふくらませてごらん」
時夫はそう言うと、ジェット風船を膨らませ始めた。
実はこのチーム、7回裏になると応援団皆でエンジ色の風船を飛ばす慣習がある。タイミングは、応援歌の終了時だ。
時夫はあっという間に風船を膨らませ、応援歌の終了を待つ。それから暫くして美優紀も膨らませ終わり、風船の口の部分をしっかりつまんでいる。一方、正はなかなか風船を膨らませられずにいた。
もう少しで応援歌が終わってしまうそのときだった。
「ちょっと貸して!」
時夫はそう言って正からジェット風船を受け取ると、思いっきりそこに息を吹き込んだ。みるみるうちにエンジ色が楕円形に膨らんでいく。
「できたぞ!」
時夫は正の小さい手に風船を持たせる。そこで応援歌が終わり、一斉にエンジの風船が空へと舞っていった。
「いくぞ!それ!」
時夫がそう言うと、3人の風船は空へと一気に飛んでいく。
時夫が横を向くと、正が笑顔で風船のゆくえを目で追っていた。正がこの日初めて見せた笑顔だった。
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