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気が向けば明日にでも戻ってくるつもりだった。
十日して事務所に戻った。
ドアの隙間には督促状が沢山捩じ込まれていた。そのどれにも目を通すことなく、まっすぐ机の上の電話機へ。留守録のあることを示すランプの点滅がある。壁はボタンを押した。
入っていたのは借金絡みの用件のみだった。
謎の男からのメッセージは一切ない。
ひとり苦笑いして椅子に身を落としたのと同時だった。
「まさか、な」
電話が鳴っている。
これで電話の向こうがあの男だったならば、まるで計ったようなこのタイミングは、
「もしもし」
『ああ、壁、マサルさん』
あの男だ。
壁は咄嗟に受話器を置き、室内に二面ある窓辺からあたりの様子を窺った。遠くのビルの一室から、望遠鏡でも使ってこちらを見ているものか。はたまた盗聴器が仕掛けられているか。
少なくとも目に入る範囲で異常は見受けられなかった。
「ああ壁だ、あんた名前は?」
とりあえず情報を得なくてはならぬと、壁は多少焦りを感じつつ言葉を返す。まともに答えるとも思えない。
『治水顎人(ちすいあぎと)と申します』
「チスイ、アギト?」
知らぬ名である。メモ書きにその奇妙な偽名を走り書きしながらも、歌舞伎の女形のような口調だなとそんなことを考える。
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