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事実がどうであれ過去に何があったのであれ、今の自分が変わるわけではない。逃げ惑うように山から山を渡り歩く生活を抜け出して晴れて下界に降りられるようになるわけではないだろう。苦労を重ねて辿り着いて、最後に待っているのは堪え難き空虚だけではさすがに参ってしまう。明るい未来などは求めてはないが、父親を見つけだして後も生き続けるということに、少しだけ、ほんの少しだけでいいから理由が欲しかった。そうでなくてはこの先、眼球のない顔と、眼球だらけの左腕を引き摺って生きて行くのが少々しんどい。
「ほんの少しな」
声を出す。
虫の声も聞こえない。
暫くは上の階でなにやら物音が聞こえていたが、やがて聞こえなくなった。
どれくらい経ったろう。
ぎい。
ぎぎ。
ぎい。
鉄の扉が軋んでいる。
ぺたぺたぺた。
ぺたぺたぺたぺたぺた。
裸足の跫。
彼は覚醒した。
厭な予感がする。
「あ」
髪? そして白い、
扉のないドアに彼が目を向けたのとそれが走り抜けたのは同時だった。
跳ね起き半ば転がるようにして廊下に出た。
廊下は静かなものだ。
耳を澄ますが何も聞こえなかった。そこで彼は思い直す。こんな場所だ、なにかあるのは当然だ。こちらに危害を加えるのでなければ取り立てて関わる必要もあるまい。
その時、
うわああああああああああああああああああああああああ!
男の大きな悲鳴が廃墟の中に響き渡った。今のは確実に血の通った人間の声だ。
肝試しがまだ帰っていなかったのか、それとも彼のように世を憚る輩が同じように侵入していたものか。どちらにせよ、今の悲鳴は尋常な反応ではあるまい。
気付くと彼は声のしたほうへ駆けていた。
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