第2話:積み重ならない景色

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 僕は取り乱す美琴を抱きしめた。もともと華奢な体だったけれど、ひと月の入院でさらに痩せてしまった。でも、彼女の胸からは確かな鼓動が伝わってくる。生きていてくれてありがとう。もう、それだけで、それだけで十分だよ。十分なはずなのに……。 ――なんで涙が出てくるんだ。 「大丈夫。ゆっくり深呼吸だ。お母さん、そこのナースコールで看護師さんを読んでください」  彼女の背中をそっとなでる。昨日のことが分からない。それはつまり、昨日の記憶もない。明日になれば今日のことも分からなくなる。美琴にとって、僕はいつだって知らない人。 『状況から考えられるのは、何らかの理由で一年ほど前からの記憶が喪失。新しく記憶を形成することもまたできなくなってしまったという事です。非常に珍しいケースですが、海外でも似たような症例報告がありまして、その患者さんでは、数か月後に、少しずつ記憶が戻っていったという話です。何がきっかけになるか分かりません。積極的に会話をされると良いでしょう』  カンファレンスルームでの医師の説明が、繰り返し頭の中で再生されていた。  その日、家に帰る途中で、僕は房具屋に立ち寄り、小さなスケッチブックを買った。彼女自身の中に記憶が維持できないのなら、彼女とは別の場所に記憶を積み重ねていけばいい。その日の出来事を、美琴と一緒にこのスケッチブックに残しておこう。僕たちの足跡が、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないのだから。
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